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眼差しと引き算の美学 ~『メスキータ』展~

東京ステーションャラリーで開催中の『メスキータ』展を観た。

メスキータ

『パイプをくわえた自画像』
濃いひげと沈思黙考する顔にハッと胸を衝かれる。
1900年という世紀の節目に際して思いを新たにするところがあったのだろうか。
このように内省的で憂いを含んだ深い表情をした人を久しく見ていない気がする。
こういう顔に出会うと、今の自分を振り返り、身の引き締まる思いがする。

『女のトルソ(“ベッティ”)』
直線で描かれた背景と人体の曲線の対比が鮮やか。
吸い寄せられるような女性の眼差しは何を訴えているのだろうか。

メスキータの木版画は創作過程の複数の段階での刷り版を残している作品も多く、彼の創作方法がうかがえて興味深い。

『ユリ』
第一ステートではユリの花だけが鮮やかで、傍らに立つ女性は影のよう。
第2ステートでは、画面左下にユリの花を見上げてにおいを嗅ぐような少年が現れる。
そして、第3ステートでは、女性の姿がくっきりと現れ、少年が見上げていたものが女性であると分かる。
少年の動作・姿勢を通して、『ユリ』という題名が花の名前だけでなく、女性を形容したものであることが見えて来る。

『ジャクリーン・オンベルツの肖像』
第1ステートでは女性の姿が写実的に描かれ、画面左にデザイン化された花が配されているが、第2ステートでは女性の横顔部分のみ残され、周囲が真っ白になっている。
引き算の思想。

動物や植物を描いた絵にはメスキータの現実をしっかりと見る眼が生きている。
一方、動植物は図案化したパターンで表現しやすい素材でもある。

『二頭のガゼル』
習作のデッサンでは写実的に描いているが、木版画では頭部のみしっかり描いて、胴体部分は真っ白に抽象化している。
頭部には眼が有る。
メスキータはガゼルの強い眼差しを決して省略しない。
胴体部分を抽象化することでその強い眼差しがより一層生きて来る。
そこには引き算の美学が有る。

現実を素材とした木版画とは異なり、無意識に筆を走らせたとされる空想的な作品群。
二人の人物が向かい合ってにらみ合う構図が実に多い。
互いに眼差しを向け合っているが、向かい合っている両者を第三者の視点から見ていると、何か滑稽でかえって現実的な感じがする。
メスキータの空想作品は第三者目線で描かれ、そこで起こっている物語を目撃者として記録している立場を取っている分、ゴチャゴチャしたノイズも見えてしまい、散漫な印象を受ける。

空想作品はメスキータにとって楽屋話のようなもので、彼の仕事の本領ではない。
彼の本領は、人物や動植物のような現実的な素材による木版画作品に在る。
作品に向き合う私たちに緊張感を与え、粛然とさせる眼差しの力。
そして、その眼差しを際立たせる引き算の美学。
本質的なものはむしろ現実の中に投影されているのだ。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

自立への苦悩 ― 『ムンク展』

東京都美術館で開催中の『ムンク展』を観た。

かねてから感じていたことだが、ムンクの絵の色彩は彩度が低い。
複数の絵の具を混ぜて使うせいだと思うが、透明感や鮮やかさが無い。
その彩度の低さが画面にどんよりとした重さを与えている。
すっきりしないモヤモヤ感が漂っている。

また、緑色が多用されていることが印象的だ。
彩色の作品では必ずと言っていいほど緑色が使われている。
一般的には緑色は植物の葉の色に代表されるように自然を象徴する色で、安らぎを感じさせてくれる。
ところが、ムンクの緑色は逆で、重たく淀んでおり、心のざわめきや不安、嫉妬といった不快な感情を呼び起こす。

並んで展示されている『夏の夜、渚のインゲル』(1889年)と『メランコリー』(1894-96年)の違いに眼を惹かれる。
前者では人物と背景が画然と分かれている。
白衣を着た女性も岩のような硬質な質感を持って描かれている。
それに対して後者では人物と背景が混然一体となっている。
水に侵食され、浜辺も人物の衣服も泥のように溶け合っている。
人物が個として周囲の自然と対立するのではなく、周囲の自然や情景と人物が混然一体となっている状態。
この状態だと、人物は自分の感情を周囲の情景に投影し、また、周囲の情景が持つ気配を自分の内面から出て来るものの如く感じ取る。
『源氏物語』を読んでいるとこのような情景・心理描写がよく出て来るので、私たち日本人にとっては親しみやすいが、西洋人にとっては自我の危機のように感じられるかも知れない。
周囲の情景の気配を自らの中に感じる感覚が、『夏の夜、声』や『瞳、声』そして後年の『叫び』につながって行くのだと思われる。

個としての人物が他のものと溶け合っていく有り様は男女の人物像でも見られる。
『接吻』や『吸血鬼』でも二人の男女は混然一体となっている。
『接吻』では顔がひとつに溶け合い、バージョンによっては身体も境界なくひとつに溶け合って性愛の極みを暗示しているが、幸福感が感じられない。
男女の立ち姿の曲線は『叫び』の男のうねるような曲線を想起させ、何か現実から浮遊した音楽性を感じさせる。
一方、『吸血鬼』では、赤い髪の女に抱擁され、赤い髪に巻かれて、男は安心感と幸福感を感じているようだ。
男女の組み合わさった姿はしっかりと大地に根付いているように感じられる。

『地獄の自画像』のムンクの背後の大きな黒い影に眼を奪われる。
この黒い影は、(本展に出品されていないが)『思春期』の少女の背後の大きな影を連想させるし、『赤と白』の白衣の女性の後ろに漂う黒い影も同種のものだと思わせる。
この黒い影は『浜辺にいる二人の女』では、立っている白衣の女性の傍にうずくまる黒衣の女性の姿に形象化する。
この黒衣の女性は死神のようにも見えるし、母のようにも見える。
『星空の下で』では、この黒衣の女性の変形とも思われる女性に抱かれて安心感を感じている男の姿が描かれる。
5歳の時に母を結核で失ったムンクにとって、母と死のイメージは切り離せなかったのかも知れない。
また、その二人の姿は『吸血鬼』の別バージョンと思える程相似している。
『吸血鬼』の男に感じられる安心感も、母に抱かれている安心感なのだと考えればうなづける。
そして、『マドンナ』の片隅に描かれた胎児はムンク自身の自画像のようにも見える。

『赤と白』『浜辺にいる二人の女』『二人、孤独な人たち』など、明らかに白衣の女性に惹かれるムンクの心が描かれている。
しかし、何故か白衣の女性とは結ばれず、赤衣の女性と関係をもってしまう不条理が描かれる。

白衣の女性はいつも水辺に立っている。
その姿はオンディーヌやルサルカを連想させる。
男は愛に殉じようとすれば死を受け入れなくてはならない。
しかし、男は一歩を踏み出すことが出来ず、赤衣の女性によって自らの命をつなぎ止める。

生命のダンス

白衣の女性はまた、早逝したムンクの姉を連想させる。
「黒衣の女性=母」が死のイメージを纏っているとすれば、「白衣の女性=姉」もまた死のイメージと切り離せないのだ。
『生命のダンス』では、赤衣の女性と一心に踊る男の足元に花が咲き始めている。
左端の白衣の女性が姉、右端の暗色の衣を着た女性が母とすれば、自分の生き方が生命の再生につながる希望を持ったものであることを母と姉に認め、見届けてもらいたい、というムンクの願望が垣間見えるようだ。
女性無しで自立することの困難なムンクの叫びを聞く思いがする。

テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

死と再生の遊び ― 『ゴードン・マッタ=クラーク展』

国立近代美術館で開催中の『ゴードン・マッタ=クラーク展』を観た。

デュシャンの影響なのだろうか、マッタ=クラークの提示の仕方は様々な観方、考え方を許容するので、どのように感じ、考えるか、観る者にとっての鏡のようなところが有る。
今回は私が強く印象を得た側面に留めて書いてみたい。

会場に入ると建物の断面の立体模型や建物内部の写真が展示されている。
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一瞬、これは建築家の展覧会なのか、と思う。
しかし、マッタ=クラークのした仕事は建設ではなく、建築物を切り裂き、破壊すること。
だが、このような展示を観てみると、建設にも破壊にも、今までに無いものを創造する、という共通項が有ることに気付く。

建築は私たちの肉体の周囲にそれまで存在しなかった住空間を創り出す。
人工的な凝縮された住空間の中で、人間はそれまで自然空間の中では得られなかった濃密な活動の場を獲得し、生産性を高める。
それは建物という境界が創り出した活動的空間だが、その境界は同時に自然と人間との間に在ったゆるやかな秩序を分断する。
だが、ふだん私たちはそのことに気付かない。

マッタ=クラークは独りで黙々と廃屋を切り裂く作業を続ける。
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縦にスプリットされた壁面の隙間が拡がると、戸外の木々の緑が、空の青さが見える。
光がこぼれるように屋内に注ぎ込まれて来る。
屋内にいる人間と屋外の自然との間に、ゆるやかなつながりが細く、徐々に、そして確かに出来始める。
建物の中に新しい光が入り、屋内は別の空間へと生まれ変わっていく。

マッタ=クラークは木を建築の原型とみなしており、樹木は原始的な住居だった。
きっと幼少時にツリーハウスで遊んだ原体験が有るのだろう。
樹木の住居には境界が無く、エネルギーが満ち溢れている。
彼が試みたスプリッティングは、廃屋をツリーハウスのようにエネルギーに満ちた空間に変容する試みだったのかも知れない。

マッタ=クラークはフードにも強い関心を持っていた。
生命が人間にもたらされ、料理によって質が変わり、消化されていくプロセス。
生と死の交錯。
生命の循環、リサイクル。

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環境における循環やリサイクルに関心の有ったマッタ=クラークは、都市空間の中で使われなくなった空間やゴミに注目し、それらを循環させたり、変容させたりすることを試みる。
しかし、フードのような有機物と異なり、都市で不要となった無機物は新しい生命を得ることが出来ないことが可視化される。

フィルム『フレッシュキル』で、つぶされていく廃車を見ていると、再生されない無機物の生の在り方の真実が見える。
死に、朽ち果てていくプロセスに眼をそむけてはならない。
あらゆるプロセスを最後まで見届けることに妙が有る。
挽歌を歌うかのようにカモメが飛んでいる。

現在、深海でプラスチック。ゴミが見付かったことが問題になり、スタバで再生可能な容器を使うようにする等の動きが出て来ているが、そうした未来をマッタ=クラークは見越していたに違いない。

マッタ=クラークが提示している問題は深くて手強いが、彼自身は実に軽やかに、エネルギッシュに、自分の活動を楽しんでいる。
都市空間の中でもツリーハウスで遊ぶかのように天真爛漫に生きることが出来る。
それは私にとって心強いヒントだった。

テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

生きている実感のしるし ― 『装飾は流転する』

東京都庭園美術館で開催中の『装飾は流転する』展を観た。

会場の一隅に「装飾とは何か」について観覧者がカードに書き込んでフックに吊るすコーナーが在る。
まるでNHKのドキュメンタリー番組『プロフェッショナル』のようだ。
プロフェッショナルも装飾も人によって様々な捉え方が有り、ひとことで言うのは難しい。

イメージや模様は、元は神を象るもの、或いは、神に触れるための媒体であり、神的なものと人間とをつなぐ役割を持つものとして創り出された。
それが後年、自己目的化し、人間の生活を彩るものとなり、衣食住を飾るものとなる。
これが装飾である。

それ故、装飾には手段的要素とそれ自体が目的であるような要素が混ざっている。
今回の展覧会に出品されている個々の作品を観ると、手段的要素が多いものもあれば、それ自体が目的であるかのように構えているものとが混在している。

それ自体が目的であるかのような作品は自らが主役となってキャラ立ちしている。
一方、手段的要素を多く持つ作品は脇役として生活空間に溶け込み、そこに+αの何かを産み出している。

装飾が手段か目的か。
作品が主役か脇役か。
生活空間とケンカするかしないか。
作者の装飾に対する考え方に多様性が有って面白い。

ヴィム・デルヴォアの《低床トレーラー》。
ゴシック装飾を施されたトレーラーは本来の機能を失い、壮麗な馬車のように見える。
装飾が生活を豊かにするものではなく、自己増殖するガン細胞のようなおぞましさを感じさせる。
装飾そのものが目的で、作品は唯我独尊的主役。

ニンケ・コスターの仕事はインテリア装飾や家具デザインをベースにしており、その作品は生活空間に調和している。
歴史や歴史的建造物に想を得たデザインの家具は生活空間に異なる意味を与え、空間を興味深く、魅力的なものにする。
装飾は手段的であると共に目的そのものでもある。
作品は脇役的でもあるが、主役的でもある。
生活空間と微妙な調和を取りつつも、いかにもヨーロッパの作家らしく、しっかりと個を主張している。

山本麻紀子の《Through the Windows》。
人と人とがつながる手段として装飾が役割を果たし、コミュニケーションが成立するとその装飾が残る。
作者は装飾が生まれて来るインタラクティブなプロセスそのものを大切にする。
装飾は手段でもあり、目的でもある。
作品は個を主張せず、脇役的だ。

山縣良和のファッション・ブランド「writtenafterwards」。
物語が有ってファッションが生まれ、そのファッションの後にまた新しい物語が始まる、という円環的な世界観。
言葉とイメージの相互フィードバックによって次元が変わっていく弁証法的な世界観。

生きるプロセスとしての装飾
人生のマイルストーンとしての装飾。
装飾に向き合うことで人生の深淵に触れ、神秘的なものに対峙する。

ファッション ― まとう。
まとった、くるまれた中にいる感覚と、まとったもの、くるまれたものを外から観ている感覚。
山縣の作品は、地球儀に象徴されるように、外から顧みた視点が多いのが印象的だ。
装飾は手段であると同時に目的であり、作品は個を主張している。

高田安規子・政子は、日常生活で使用する食器、衣装、装身具、雑貨等を精緻に造り込む。
旧朝香宮邸の随所に、まるで元からそこに在ったかのように忍ばせる。
元々の部屋には無い空間が立ち上がるが、それは快い驚きに満ちている。
抵抗なく心に入って来る装飾によって、観る者の認識がいつの間にか変わっている。
理性的な問題提起をせずに感覚的に入って来る装飾の持つ力の大きさ。
装飾は手段に徹し、作品は脇役的だが、とてつもない潜在力が有る。

コア・ポアが描いた大きな絨毯状の絵画。
多彩な世界が平面の中に生き生きと踊っている。
生活空間に彩を添え、豊かなものにする。
しかし、絵画世界は自立的で、生活空間からの影響を受けず、個を主張する。

アラヤー・ラートチャムルーンスックの《タイ・メドレー》シリーズ。
遺体安置所で死者のためにタイの古典文学「イナオ」を朗読する女性。
朗読される愛の詩と遺体に掛けられた花柄のプリント模様の布。
生と死がひとつながりの隣り合ったものとして素直に感じられる。
こちらの世界とあちらの世界をつなぐもの、という装飾本来の役割を見る思いがした。

今回出展している作家たちの装飾観は一人一人異なっている。
100人いれば100通りの装飾観が有るし、1,000人いれば1,000通りの装飾観が有ることだろう。
共通しているのは、装飾が予定調和的なものとして生活空間に埋没していないこと。
普段の生活とは異なる世界を垣間見せる装飾となっていることだ。
それは、現実世界を異化し、神秘的なものへの憧憬を呼び起こし、生きることの意味を振り返らせる。
私たちが生きている、という実感を、装飾は現実の生活空間の中で視覚的イメージを通してありありと感じさせてくれる。
装飾が流転するのは私たちが生きていると実感出来ているしるしなのだ。

テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

現在進行形の表現 ― 誠実に生きる

木村俊介の『インタビュー』という本に興味を惹かれ、読んでみた。
私がやっているカウンセリングも基本的にはインタビューであり、この著者がどのようなことを書いているのかに関心が有った。

「自発性はあるんだけど、ひとりごとではなくて、誰か眼の前にいる人に向けて伝える言葉」

「多かれ少なかれ人はさまざまな意味で孤立している。その孤独について、あるいはほんとうに思っていることを話すに足る機会というのも、そんなにたくさんはない」

「気持ち良く、その人自身の心の奥底に降りていってもらう」

「楽しみも含んだなにか良い関係性のなかからこそ、秘密や告白のにじみ出てくる」

「インタビューとは、質問と回答の繰り返しのなかから過去の解釈をやり直すための触媒」

「そのように価値観が裏返り続けるので、人は時間の流れとともに変貌していく」

「なにかとなにかのあいだ(「インター」という接頭語の意味でもある)に、ある視点(「ビュー」という単語の意味でもある)を見つける「インタビュー」的なものごとの捉えかた」

上記のようなことは私の臨床体験でも実感していることであり、ストンと腑に落ちる。
また、著者はいまの世の中とインタビューとの関係について下記のように語る。

「なにかを語ったり記したりしはじめる前から積極的にこれを伝えたいな、と思っている内容は、人からあんまり文句をいわれない範囲に留まるよくある話、自分をよく見せたがるがゆえの言葉に過ぎない」

「「良く見せたい」と綺麗なものに操作しようとしてのちに書き加えられる」記事の数々。

「「はりぼて」でなんとかやりすごしてきているのはなにも言葉ばかりでなく、現実そのものがそうだともいえるだろう」

「いまの世の中において、広告や虚飾の度合いが少ない言葉に出会えるだけで、それこそが貴重な体験のうちのひとつ」

「「発言権なんてない存在とされている人の目に映った世の中の観察」のほうが現実をねじ曲げない場面が多くてしっくりくる」

東京都写真美術館で開催中の『荒木経惟 センチメンタルな旅 1971-2017-』や、その前に開催されていた『ダニヤータ・シン インドの大きな家の美術館』を観たとき、『インタビュー』の著者が書いているのと同じようなことを感じた。

荒木は激白する。

「たまたまファション写真が氾濫しているにすぎないのですが、こうでてくる顔、でてくる裸、でてくる私生活、でてくる風景が嘘っぱちじゃ、我慢できません。これはそこいらの嘘写真とはちがいます」

予め言いたい何かを伝えるための道具としてのインタビュー記事や写真はきれいにまとまっているが、それは予定調和的に都合よく編集されていて、感動が無い。
人間の在りかたや世界の在りかたは割り切れるように説明できない矛盾に満ちている。
その矛盾に満ちた存在をごまかさずに、ありのままに観て、表現できたとき、真実に触れたような驚きと感動といとおしさがあり、乾いた心が癒されるように感じられる。
荒木が「愛」と言っているのは、この感動といとおしさなのではないだろうか。

「この「センチメンタルな旅」は私の愛であり写真家決心なのです。自分の新婚旅行を撮影したから真実写真だぞ!といってるのではありません。写真家としての出発を愛にし、たまたま私小説からはじまったにすぎないのです。・・・(中略)・・・私は日常の単々とすぎてゆく順序になにかを感じています」

「陽子によって写真家になった」と荒木自身が語るように、陽子は最も重要な被写体であったし、死後も彼の仕事に大きな影響を与えている。
それは、「センチメンタルな旅」が人に見せることを前提として綺麗にまとめられた作品になっていないからだろう。

人は時と共に変化していく。
変化するプロセスのその時々の姿をできるだけありのままに捉え、記録する。
時間が経過し、過去を振り返る時々で、過去の出来事をどう捉え、どう意味付けするかが変わって来る。
記録がありのままの姿を捉えたものであれば、それは新たな解釈を受容するキャパが大きく、振り返るたびに新たに生き返り、その生命を豊かにしていく。

ダニヤータ・シンは報道写真家としてキャリアをスタートしたが、西洋人のインドに対するステレオタイプ的なものの見方を助長するような写真を提供する仕事に嫌気がさして8年ほどでやめてしまう。
ダニヤータもまた、虚飾に満ちた予定調和的な世界を嫌い、自分の心に忠実であろうとする人だ。
そのためには、一般的なイメージを捨て、個の存在に着く必要が有った。
彼女はロンドン・タイムズ紙の取材依頼でたまたま紹介されたユーナック(去勢された男性)のモナ・アハメドを、発表することなど考えずに13年にわたり撮り続け、結果的に2001年に『マイセルフ・モナ・アハメド』と題する本にまとめた。

モナはダニヤータにとって、荒木にとっての陽子と同じように、写真家の礎となる被写体である。
ダニヤータはその後、多くの人物を被写体とするが、被写体となった人物と現在進行形で関係を持ち続けている。
関係が続けば、時間の経過とともに、相手も変わり、自分も変わり、相手と自分の関係も変わる。
すると、過去に撮影した写真のコンテクストや意味付けも変わって来る。

ダニヤータは数十枚の写真が収納出来る衝立状の家具を9体、デリーの自宅に置いて、随時、収納する写真を入れ替えたり、配置を入れ替えたりしていると言う。
この9体の家具(写真美術館)のコレクションを〈インドの大きな家の美術館〉と称している。

ダニヤータは語る。
「わたしは常に自分の作品を積極的に変換させている生きている現役のアーティストだ」

人間が生きるということは常に変化し続けること。
ダニヤータや荒木の写真表現は、自分の生を現在進行形で表現しようとする試みだ。
また、木村俊介のインタビューも、自身の生を誠実に反映させようとする試みに思える。
振り返ってみると、私にとってはカウンセリングが正にそのようなものなのだと改めて思った。

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体

プロフィール

迷林亭主

Author:迷林亭主
迷林亭主ことカウンセリングルーム・メイウッド室長 服部治夫。
三鷹市の住宅地に佇む隠れ家的なヒーリグ・スペース。
古民家を改装したくつろぎの空間で、アートセラピーや催眠療法などを活用し、カウンセリングやヒーリング、創造性開発の援助に取り組んでいます。

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