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無意識に浮かぶボート ― 『ピーター・ドイグ展』

国立近代美術館で開催中の『ピーター・ドイグ展』を観た。

ドイグの絵を支えているのは闇の力。
影が形象化されたイメージに魅力を感じる。
ドイグの絵は一覧して暗い。
≪第1章 森の奥へ≫の絵は夜、曇り空、木陰で太陽の光が届いていない。
≪第2章 海辺で≫ではトリニダード・トバゴの明るい日差しを浴びた世界も描かれたが、却って日陰の闇に惹き込まれてしまう画家の心を改めて確認するようだ。

ドイグの絵はとにかく視覚的に美しいが、それ以上に心を捉えて離さないのは、絵の持つミステリアスな雰囲気だ。
絵は描き手の心を映し出すと同時に観る者の心を映し出す鏡の働きをする。
絵の持つミステリアスな雰囲気に惹かれるのは、観る者の心の中にも絵に触発されるミステリアスなものが有るからだろう。

一枚の絵葉書から想を得て「ガストホフ・ツァ・ムンデルタール・シュペレ」を描き上げたドイグの手法は、わずかな資料から長大なフィクションを創作する小説家の手法に似ている。
小さな手掛かりによって、無意識の中から広大なイメージの世界を築き上げて行く。

ガストホフ

「ガストホフ・ツァ・ムンデルタール・シュペレ」を観ると、先ず青緑色をした大画面の美しさに心を奪われる。
画面上部に描かれた夜空はオーロラのような光に満たされ、星がぼんやりと輝き、幻想的。
画面下部に描かれた芝生も空と同様にぼんやりとした明るさに満ち、これもまた夢幻的。
画面中間部に描かれたダムの堤防が延長された道を挟む石塀にはめ込まれたモザイクがカラフルで色鮮やか。
中景には人間が造った人工物の世界がくっきりと美しい姿を現している。

二人の人物が立つゲートの左側の扉は開かれ、右側の扉は閉じている。
画面の両脇に立つ樹木のうち、左の木の枝葉は開いた形をし、右の木の枝葉は閉じた形をしている。
石塀に挟まれた道(堤防)は湾曲しながら右奥へと続いている。
堤防の右側には石塀に囲まれた土地、閉じたスペースが在り、左側にはダム湖の開けたスペースが在る。
右の土地は意識の領域、
左のダム湖は無意識の領域を連想させる。

ボート

無意識の湖に浮かんだボートに乗った人は何を見、何を考えているのだろうか。
それは作者の立ち位置のようにも思われ、観る者の立ち位置のようにも思われる。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

諦念の自画像 - 『フォリー=ベルジェールのバー』

東京都美術館で開催中の『コートールド美術館展』を観た。

セザンヌ

ポール・セザンヌの『ノルマンディーの農場、夏(アンタンヴィル)』。
すごく心落ち着く風景。
観ているとスーッと画面に引き込まれていくようだ。
しかし、描かれているひとつひとつの要素を良く見てみると写生的に描かれたものではない。
画家は自然観察した要素を原子レベルにまで微分し、再び自らの秩序に沿って積分している。
そこには自然の景観が持つ本質がありのままにあらわになって来る。
セザンヌは自然を「理性の眼」で観ている。

モネ

クロード・モネの『アンティーブ』。
青白く輝くさざ波を観ていると幸せな気持ちになって来る。
モネの描く自然は歌い、笑い、人生を肯定する力に満ちている。
画家は自然の語る物語に耳を傾けているかのようだ。
モネは自然を「感情の眼」で観ている。

マネ

エドゥアール・マネの『アルジャントゥイユのセーヌ河岸』。
岸辺の人物、水上のヨット。
絵の構図が素晴らしい。
だが、私の眼はそれらの形象よりも水面に湛えられた深い碧色に惹き付けられる。
それは深い精神性を感じさせる。
形を描くことが出来ないものを描こうとする試み。
マネは自然の「霊性の眼」で観ている。

ベルジェール

そのマネの最晩年の傑作、『フォリー=ベルジェールのバー』。
何よりも正面を向いた女性の表情に眼を奪われる。
その眼はこちらを見ているようだが、焦点は合っていない。
彼女は独りでもの想いにふけっている。
鏡に映った彼女の後姿は男性に接客しているが、これは現在ではなく、過去の出来事だろう。
鏡の手前の実像は現在だが、、鏡に映った像は過去、というか、彼女のもの想いの中のイメージが映し出されているかのようだ。

鏡の中の喧騒な世界はこの世の縮図のようで、どうでも良いことに浮かれ、騒いでいる。
それは正に狂気(Folies)だ。
それに対して、鏡の前に立つ女性の眼はとても醒めている。
彼女は迷える子羊たちを導く羊飼い(Bergère)を象徴しているのだろうか。
それにしては彼女の表情は疲れてうんざりしているように見える。
明らかにこの世の喧騒な世界から距離を置いている。

身体の苦痛に苛まれた晩年のマネの精神はいよいよ冴えわたり、全てのものが顕かに、また諦念を持って見えていたのだろう。
見るべきほどのことは見つ。
この醒めた眼差しの女性はマネ自身の自画像と言えるのではないだろうか。

テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

眼差しと引き算の美学 ~『メスキータ』展~

東京ステーションャラリーで開催中の『メスキータ』展を観た。

メスキータ

『パイプをくわえた自画像』
濃いひげと沈思黙考する顔にハッと胸を衝かれる。
1900年という世紀の節目に際して思いを新たにするところがあったのだろうか。
このように内省的で憂いを含んだ深い表情をした人を久しく見ていない気がする。
こういう顔に出会うと、今の自分を振り返り、身の引き締まる思いがする。

『女のトルソ(“ベッティ”)』
直線で描かれた背景と人体の曲線の対比が鮮やか。
吸い寄せられるような女性の眼差しは何を訴えているのだろうか。

メスキータの木版画は創作過程の複数の段階での刷り版を残している作品も多く、彼の創作方法がうかがえて興味深い。

『ユリ』
第一ステートではユリの花だけが鮮やかで、傍らに立つ女性は影のよう。
第2ステートでは、画面左下にユリの花を見上げてにおいを嗅ぐような少年が現れる。
そして、第3ステートでは、女性の姿がくっきりと現れ、少年が見上げていたものが女性であると分かる。
少年の動作・姿勢を通して、『ユリ』という題名が花の名前だけでなく、女性を形容したものであることが見えて来る。

『ジャクリーン・オンベルツの肖像』
第1ステートでは女性の姿が写実的に描かれ、画面左にデザイン化された花が配されているが、第2ステートでは女性の横顔部分のみ残され、周囲が真っ白になっている。
引き算の思想。

動物や植物を描いた絵にはメスキータの現実をしっかりと見る眼が生きている。
一方、動植物は図案化したパターンで表現しやすい素材でもある。

『二頭のガゼル』
習作のデッサンでは写実的に描いているが、木版画では頭部のみしっかり描いて、胴体部分は真っ白に抽象化している。
頭部には眼が有る。
メスキータはガゼルの強い眼差しを決して省略しない。
胴体部分を抽象化することでその強い眼差しがより一層生きて来る。
そこには引き算の美学が有る。

現実を素材とした木版画とは異なり、無意識に筆を走らせたとされる空想的な作品群。
二人の人物が向かい合ってにらみ合う構図が実に多い。
互いに眼差しを向け合っているが、向かい合っている両者を第三者の視点から見ていると、何か滑稽でかえって現実的な感じがする。
メスキータの空想作品は第三者目線で描かれ、そこで起こっている物語を目撃者として記録している立場を取っている分、ゴチャゴチャしたノイズも見えてしまい、散漫な印象を受ける。

空想作品はメスキータにとって楽屋話のようなもので、彼の仕事の本領ではない。
彼の本領は、人物や動植物のような現実的な素材による木版画作品に在る。
作品に向き合う私たちに緊張感を与え、粛然とさせる眼差しの力。
そして、その眼差しを際立たせる引き算の美学。
本質的なものはむしろ現実の中に投影されているのだ。

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ジャンル : 学問・文化・芸術

自立への苦悩 ― 『ムンク展』

東京都美術館で開催中の『ムンク展』を観た。

かねてから感じていたことだが、ムンクの絵の色彩は彩度が低い。
複数の絵の具を混ぜて使うせいだと思うが、透明感や鮮やかさが無い。
その彩度の低さが画面にどんよりとした重さを与えている。
すっきりしないモヤモヤ感が漂っている。

また、緑色が多用されていることが印象的だ。
彩色の作品では必ずと言っていいほど緑色が使われている。
一般的には緑色は植物の葉の色に代表されるように自然を象徴する色で、安らぎを感じさせてくれる。
ところが、ムンクの緑色は逆で、重たく淀んでおり、心のざわめきや不安、嫉妬といった不快な感情を呼び起こす。

並んで展示されている『夏の夜、渚のインゲル』(1889年)と『メランコリー』(1894-96年)の違いに眼を惹かれる。
前者では人物と背景が画然と分かれている。
白衣を着た女性も岩のような硬質な質感を持って描かれている。
それに対して後者では人物と背景が混然一体となっている。
水に侵食され、浜辺も人物の衣服も泥のように溶け合っている。
人物が個として周囲の自然と対立するのではなく、周囲の自然や情景と人物が混然一体となっている状態。
この状態だと、人物は自分の感情を周囲の情景に投影し、また、周囲の情景が持つ気配を自分の内面から出て来るものの如く感じ取る。
『源氏物語』を読んでいるとこのような情景・心理描写がよく出て来るので、私たち日本人にとっては親しみやすいが、西洋人にとっては自我の危機のように感じられるかも知れない。
周囲の情景の気配を自らの中に感じる感覚が、『夏の夜、声』や『瞳、声』そして後年の『叫び』につながって行くのだと思われる。

個としての人物が他のものと溶け合っていく有り様は男女の人物像でも見られる。
『接吻』や『吸血鬼』でも二人の男女は混然一体となっている。
『接吻』では顔がひとつに溶け合い、バージョンによっては身体も境界なくひとつに溶け合って性愛の極みを暗示しているが、幸福感が感じられない。
男女の立ち姿の曲線は『叫び』の男のうねるような曲線を想起させ、何か現実から浮遊した音楽性を感じさせる。
一方、『吸血鬼』では、赤い髪の女に抱擁され、赤い髪に巻かれて、男は安心感と幸福感を感じているようだ。
男女の組み合わさった姿はしっかりと大地に根付いているように感じられる。

『地獄の自画像』のムンクの背後の大きな黒い影に眼を奪われる。
この黒い影は、(本展に出品されていないが)『思春期』の少女の背後の大きな影を連想させるし、『赤と白』の白衣の女性の後ろに漂う黒い影も同種のものだと思わせる。
この黒い影は『浜辺にいる二人の女』では、立っている白衣の女性の傍にうずくまる黒衣の女性の姿に形象化する。
この黒衣の女性は死神のようにも見えるし、母のようにも見える。
『星空の下で』では、この黒衣の女性の変形とも思われる女性に抱かれて安心感を感じている男の姿が描かれる。
5歳の時に母を結核で失ったムンクにとって、母と死のイメージは切り離せなかったのかも知れない。
また、その二人の姿は『吸血鬼』の別バージョンと思える程相似している。
『吸血鬼』の男に感じられる安心感も、母に抱かれている安心感なのだと考えればうなづける。
そして、『マドンナ』の片隅に描かれた胎児はムンク自身の自画像のようにも見える。

『赤と白』『浜辺にいる二人の女』『二人、孤独な人たち』など、明らかに白衣の女性に惹かれるムンクの心が描かれている。
しかし、何故か白衣の女性とは結ばれず、赤衣の女性と関係をもってしまう不条理が描かれる。

白衣の女性はいつも水辺に立っている。
その姿はオンディーヌやルサルカを連想させる。
男は愛に殉じようとすれば死を受け入れなくてはならない。
しかし、男は一歩を踏み出すことが出来ず、赤衣の女性によって自らの命をつなぎ止める。

生命のダンス

白衣の女性はまた、早逝したムンクの姉を連想させる。
「黒衣の女性=母」が死のイメージを纏っているとすれば、「白衣の女性=姉」もまた死のイメージと切り離せないのだ。
『生命のダンス』では、赤衣の女性と一心に踊る男の足元に花が咲き始めている。
左端の白衣の女性が姉、右端の暗色の衣を着た女性が母とすれば、自分の生き方が生命の再生につながる希望を持ったものであることを母と姉に認め、見届けてもらいたい、というムンクの願望が垣間見えるようだ。
女性無しで自立することの困難なムンクの叫びを聞く思いがする。

テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
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死と再生の遊び ― 『ゴードン・マッタ=クラーク展』

国立近代美術館で開催中の『ゴードン・マッタ=クラーク展』を観た。

デュシャンの影響なのだろうか、マッタ=クラークの提示の仕方は様々な観方、考え方を許容するので、どのように感じ、考えるか、観る者にとっての鏡のようなところが有る。
今回は私が強く印象を得た側面に留めて書いてみたい。

会場に入ると建物の断面の立体模型や建物内部の写真が展示されている。
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一瞬、これは建築家の展覧会なのか、と思う。
しかし、マッタ=クラークのした仕事は建設ではなく、建築物を切り裂き、破壊すること。
だが、このような展示を観てみると、建設にも破壊にも、今までに無いものを創造する、という共通項が有ることに気付く。

建築は私たちの肉体の周囲にそれまで存在しなかった住空間を創り出す。
人工的な凝縮された住空間の中で、人間はそれまで自然空間の中では得られなかった濃密な活動の場を獲得し、生産性を高める。
それは建物という境界が創り出した活動的空間だが、その境界は同時に自然と人間との間に在ったゆるやかな秩序を分断する。
だが、ふだん私たちはそのことに気付かない。

マッタ=クラークは独りで黙々と廃屋を切り裂く作業を続ける。
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縦にスプリットされた壁面の隙間が拡がると、戸外の木々の緑が、空の青さが見える。
光がこぼれるように屋内に注ぎ込まれて来る。
屋内にいる人間と屋外の自然との間に、ゆるやかなつながりが細く、徐々に、そして確かに出来始める。
建物の中に新しい光が入り、屋内は別の空間へと生まれ変わっていく。

マッタ=クラークは木を建築の原型とみなしており、樹木は原始的な住居だった。
きっと幼少時にツリーハウスで遊んだ原体験が有るのだろう。
樹木の住居には境界が無く、エネルギーが満ち溢れている。
彼が試みたスプリッティングは、廃屋をツリーハウスのようにエネルギーに満ちた空間に変容する試みだったのかも知れない。

マッタ=クラークはフードにも強い関心を持っていた。
生命が人間にもたらされ、料理によって質が変わり、消化されていくプロセス。
生と死の交錯。
生命の循環、リサイクル。

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環境における循環やリサイクルに関心の有ったマッタ=クラークは、都市空間の中で使われなくなった空間やゴミに注目し、それらを循環させたり、変容させたりすることを試みる。
しかし、フードのような有機物と異なり、都市で不要となった無機物は新しい生命を得ることが出来ないことが可視化される。

フィルム『フレッシュキル』で、つぶされていく廃車を見ていると、再生されない無機物の生の在り方の真実が見える。
死に、朽ち果てていくプロセスに眼をそむけてはならない。
あらゆるプロセスを最後まで見届けることに妙が有る。
挽歌を歌うかのようにカモメが飛んでいる。

現在、深海でプラスチック。ゴミが見付かったことが問題になり、スタバで再生可能な容器を使うようにする等の動きが出て来ているが、そうした未来をマッタ=クラークは見越していたに違いない。

マッタ=クラークが提示している問題は深くて手強いが、彼自身は実に軽やかに、エネルギッシュに、自分の活動を楽しんでいる。
都市空間の中でもツリーハウスで遊ぶかのように天真爛漫に生きることが出来る。
それは私にとって心強いヒントだった。

テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

迷林亭主

Author:迷林亭主
迷林亭主ことカウンセリングルーム・メイウッド室長 服部治夫。
三鷹市の住宅地に佇む隠れ家的なヒーリグ・スペース。
古民家を改装したくつろぎの空間で、アートセラピーや催眠療法などを活用し、カウンセリングやヒーリング、創造性開発の援助に取り組んでいます。

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