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道は一を生ず

道生一 一生二 二生三 三生萬物
道(タオ)は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。
老子は宇宙の在り方を実にシンプルに、そして的確に言い表している。

原文の「生」を「=」に置き換えてみると、
道=1 1=2 2=3 3=万物。
すなわち
道=1=2=3=万物 で、
「一即多」「多即一」と同じ意味になる。

「道」は名を付けられないものに仮に付けた仮名であるが、「道」という漢字は首(始まり)としんにょう(終わり)の組合せで出来ており、宇宙の始まりと終わりを表している。
この宇宙の始まりと終わりは同一のポイントであり、そこには何も無く、かつ、無尽蔵のものが在る。
従って、
道=1=2=3=万物 は
0=1=2=3=∞
と置き換えることも出来る。
これは「空即是色」「色即是空」に同じ。

原文の「生」の意味を尊重して、ダイナミックな見方をしてみると、
0→1 1→2 2→3 3→∞
となる。

0→1はいわゆるビッグバンを指し示す。
「1」の状態になると安定性が減じ、分裂の気配が生じる。
1→2で分裂が実現し、二項対立が起こる。
2→3は「正反合」の弁証法的な進化の過程を示す。
3→∞は進化が進んで、無限にエントロピーが拡大して行く様子。
これが∞に達する時、それは0になる。
テープレコーダーのヘッドを消磁する時に、磁気で飽和状態にすることによって初期化されるのに似ている。

状態が不安定になり、分裂が始まると、エネルギーが放出され、光となる。
分裂が極まると光が闇に転じる。
光闇一如の消失点。
それが道(タオ)だ。

道(タオ)は生成消滅の起点であり、終点である。
それは輪廻転生にも通じている。
この生々流転の繰り返しを快と感じるか、不快と感じるかは個性の問題なのだろう。
人生を楽しむ人と苦しむ人。
老子は前者だが、ブッダは後者だ。

ブッダの言う涅槃(ニルヴァーナ)とはサンスクリット語で消滅を意味するそうだが、これは正に生成消滅のゼロ・ポイントに自覚的に赴くことであり、解脱というのは、そこで再生することのない永遠の死に就くことなのではないかと思う。


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テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

オニキス


蜃気楼を切り裂く
細隙灯の光
恐ろしいまでに黒い
オニキス
唇に触れる
軽やかな風
凧の糸は張られ
空の青は深く
私の心は躍る

テーマ : 詩・ことば
ジャンル : 小説・文学

幽玄について (続)

前回のブログは余韻を持って終えたつもりだったが、その後、書き加えたいことが出て来た。

前回ブログの文末の歌

春の夜の夢の浮橋と絶えして峰にわかるる横雲の空

の風景はどのようなものだろうか。
山頂が雲に覆われた景色、がイメージされるだろう。
この景色はどこかで見たものと共通していないだろうか。
そう、前回ブログの最初に登場した

田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

の肉眼で見える風景によく似ている。
どちらも雲が低い位置にあって、山の頂が隠されて、見通しが利かない状況である。

「田子の浦」の歌では、ズームインした視点から、雲に隠されて見えない山頂で起こっているであろうことを心眼で見、想像の華を詠み込んでいる。
一方、「春の夜の」の歌では、ズームアウトした視点から空全体を視野に入れて、雲に覆われた山の峰を遠望し、その中で芽生えているかも知れないことを予感しつつも、今は距離を置いて余韻を味わっている風情がある。
前者が積極的に物語の渦中に入り、主観的な視点で見ているのに対し、後者は物語の渦中から身を引き、客観的な視点で見ているようだ。

「幽玄」には主観、客観ふたつの視点がある。
時には登場人物と一体化して喜怒哀楽を共にして興じ、疲れた時には舞台から身を引いて舞台全体を眺める。
自由自在に自身の心の在り位置を変え、活動と休息を繰り返す。
身を引いた休息がある故に、舞台のエッセンスを本当に味わい、楽しむことが出来る。

「幽玄」とは、「人生」という言葉の言い換えのひとつかも知れない。

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

幽玄について

万葉集に山部赤人の代表歌である

田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける

がある。
雪を頂いた富士の山頂がくっきりと見えるような、絵画的な表現である。

一方、藤原定家は同じ歌を新古今集に収録する際に、下記のように改作した。

田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

この歌の場合には、海岸から遠望する富士は雲に覆われている。
しかし、雲の中ではきっと白い雪が降っている最中なのだろう。
つまり、定家は、実際には見えない想像の風景を描写している。

新古今集の中に、定家自身の作で、三夕の歌のひとつとして有名な次の歌がある。

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

「花も紅葉も」まで吟じたところで、私達の心の中に一瞬「花」や「紅葉」のイメージが想い浮かぶ。そして、直後の「なかりけり」で打ち消される。しかし、「花」「紅葉」の残像は私達の心の中にそのまま残る。イメージは一旦潜在意識に入り込むと論理的な否定の言葉では払拭されないのだ。
そして、一番上に塗り重ねられた「浦の苫屋の秋の夕暮れ」という殺風景なイメージの裏で確かな輝きを発し、眼前に見える変哲もない地味な風景を、魅力を秘めた豊かなものに変貌させる。

肉眼ではつまらない風景しか見えないが、想像力を駆使して心を澄ませれば、その奥には素晴らしい「あはれ」の世界が見える。
美は隠されている。
故に、覆っている外側にもまた絶妙な趣きがある。
こうした知的で洗練された美意識がおそらく「幽玄」という言葉の意味するところなのだろう。

私が好きな山部赤人/藤原定家の共作を紹介したい。
万葉集の原歌は

この夕べ降り来る雨は彦星の早漕ぐ舟の櫂の散りかも

七夕の雨を詠んだ歌である。
ロマンチックな想像のシーンを描いている。
定家はこの歌に我が意を得たりと共感したようで、原歌の趣向を変えずに微細な改変に留めて、新古今集に収録している。

この夕べ降りくる雨は彦星のと渡るふねのかいのしづくか

言葉の響き、歌の調べがより洗練されて美しくなっている。
この歌も、隠された美を想像(創造)することで、表層的な世界を趣きのあるものに変容させている幽玄な作品である。

2010年4月5日のブログ「花は盛りに」の中で、「もののあはれ」についての私の解釈を紹介したが、それは表面に現れた一瞬の美の裏に隠された長い地味なプロセス(事実)を想う物語性を秘めた美意識だった。
一方、「幽玄」は表面に見えているつまらない情景の裏に隠された虚構の美を想う美意識で、これも物語性を秘めている。
日本的な美意識には物語性があり、それを味わうには私達の想像力を要求するようだ。

物語を味わい、物語は尽きる。
けれども、余韻は残る。

春の夜の夢の浮橋と絶えして峰にわかるる横雲の空

テーマ : モノの見方、考え方。
ジャンル : 心と身体

詩の言葉

「わたしたちはほんとうに言葉を選ぶことができるのであろうか。詩的言語というのは、つきつめると言葉によって逆に、わたしたちの生が選ばれるのではなかろうか。」(前 登志夫 『歌の思想』より)

私も全くその通りだと思う。
詩は書こうと思っても書けない。
しかし、書かなければならない必然性が生じた時、まるで啓示のように言葉が降りて来る。

詩は言葉であって言葉ではない。
だから詩は動く。言葉は動く。
詩人の心の動きにしたがって動く。

言葉で説明することが出来ない何かを、言葉を使って表現しようとする試みが詩だ。
詩は言葉を超えた言葉なのだ。

村上春樹の『1Q84』の中に「説明しなくてはわからないということは、説明してもわからないということだ」という台詞が出て来る。
説明しても分からない人には分からないが、説明しなくても分かる人には分かるものがある。
それは論理では理解出来ず、感情のレベルや直観のレベルで理解することの出来るものだ。
詩とは正にそのようなものなのである。

カウンセリングの対話は言葉を通して行われるが、言葉で説明出来るレベルの内容に終始しているうちは効果が現れない。
言葉で言い表せない壁に突き当たり、それを超えたところで、気付きが起こる。
まるで啓示のように。
カウンセリングと詩は似ている。

カウンセリングは言葉であって言葉ではない。
だからカウンセリングは動く。言葉は動く。
クライエントの心の動きにしたがって動く。

ル=グィンの『ゲド戦記』の中で、昔は竜と人間が同じ言葉を話していたが、次第に人間が独自の言葉を使うようになって、竜の言葉を理解出来る人間がほとんどいなくなってしまった、としているが、そのくだりを読んだ時、私は、竜の言葉とは詩のことだ、と思った。

竜の言葉、すなわち原初の言葉を取り戻して、宇宙の全体性とのつながりを回復しようとする試み。それが詩であり、カウンセリングなのだ、と私は思う。

テーマ : セラピー&ヒーリング
ジャンル : 心と身体

プロフィール

迷林亭主

Author:迷林亭主
迷林亭主ことカウンセリングルーム・メイウッド室長 服部治夫。
三鷹市の住宅地に佇む隠れ家的なヒーリグ・スペース。
古民家を改装したくつろぎの空間で、アートセラピーや催眠療法などを活用し、カウンセリングやヒーリング、創造性開発の援助に取り組んでいます。

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