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現在進行形の表現 ― 誠実に生きる

木村俊介の『インタビュー』という本に興味を惹かれ、読んでみた。
私がやっているカウンセリングも基本的にはインタビューであり、この著者がどのようなことを書いているのかに関心が有った。

「自発性はあるんだけど、ひとりごとではなくて、誰か眼の前にいる人に向けて伝える言葉」

「多かれ少なかれ人はさまざまな意味で孤立している。その孤独について、あるいはほんとうに思っていることを話すに足る機会というのも、そんなにたくさんはない」

「気持ち良く、その人自身の心の奥底に降りていってもらう」

「楽しみも含んだなにか良い関係性のなかからこそ、秘密や告白のにじみ出てくる」

「インタビューとは、質問と回答の繰り返しのなかから過去の解釈をやり直すための触媒」

「そのように価値観が裏返り続けるので、人は時間の流れとともに変貌していく」

「なにかとなにかのあいだ(「インター」という接頭語の意味でもある)に、ある視点(「ビュー」という単語の意味でもある)を見つける「インタビュー」的なものごとの捉えかた」

上記のようなことは私の臨床体験でも実感していることであり、ストンと腑に落ちる。
また、著者はいまの世の中とインタビューとの関係について下記のように語る。

「なにかを語ったり記したりしはじめる前から積極的にこれを伝えたいな、と思っている内容は、人からあんまり文句をいわれない範囲に留まるよくある話、自分をよく見せたがるがゆえの言葉に過ぎない」

「「良く見せたい」と綺麗なものに操作しようとしてのちに書き加えられる」記事の数々。

「「はりぼて」でなんとかやりすごしてきているのはなにも言葉ばかりでなく、現実そのものがそうだともいえるだろう」

「いまの世の中において、広告や虚飾の度合いが少ない言葉に出会えるだけで、それこそが貴重な体験のうちのひとつ」

「「発言権なんてない存在とされている人の目に映った世の中の観察」のほうが現実をねじ曲げない場面が多くてしっくりくる」

東京都写真美術館で開催中の『荒木経惟 センチメンタルな旅 1971-2017-』や、その前に開催されていた『ダニヤータ・シン インドの大きな家の美術館』を観たとき、『インタビュー』の著者が書いているのと同じようなことを感じた。

荒木は激白する。

「たまたまファション写真が氾濫しているにすぎないのですが、こうでてくる顔、でてくる裸、でてくる私生活、でてくる風景が嘘っぱちじゃ、我慢できません。これはそこいらの嘘写真とはちがいます」

予め言いたい何かを伝えるための道具としてのインタビュー記事や写真はきれいにまとまっているが、それは予定調和的に都合よく編集されていて、感動が無い。
人間の在りかたや世界の在りかたは割り切れるように説明できない矛盾に満ちている。
その矛盾に満ちた存在をごまかさずに、ありのままに観て、表現できたとき、真実に触れたような驚きと感動といとおしさがあり、乾いた心が癒されるように感じられる。
荒木が「愛」と言っているのは、この感動といとおしさなのではないだろうか。

「この「センチメンタルな旅」は私の愛であり写真家決心なのです。自分の新婚旅行を撮影したから真実写真だぞ!といってるのではありません。写真家としての出発を愛にし、たまたま私小説からはじまったにすぎないのです。・・・(中略)・・・私は日常の単々とすぎてゆく順序になにかを感じています」

「陽子によって写真家になった」と荒木自身が語るように、陽子は最も重要な被写体であったし、死後も彼の仕事に大きな影響を与えている。
それは、「センチメンタルな旅」が人に見せることを前提として綺麗にまとめられた作品になっていないからだろう。

人は時と共に変化していく。
変化するプロセスのその時々の姿をできるだけありのままに捉え、記録する。
時間が経過し、過去を振り返る時々で、過去の出来事をどう捉え、どう意味付けするかが変わって来る。
記録がありのままの姿を捉えたものであれば、それは新たな解釈を受容するキャパが大きく、振り返るたびに新たに生き返り、その生命を豊かにしていく。

ダニヤータ・シンは報道写真家としてキャリアをスタートしたが、西洋人のインドに対するステレオタイプ的なものの見方を助長するような写真を提供する仕事に嫌気がさして8年ほどでやめてしまう。
ダニヤータもまた、虚飾に満ちた予定調和的な世界を嫌い、自分の心に忠実であろうとする人だ。
そのためには、一般的なイメージを捨て、個の存在に着く必要が有った。
彼女はロンドン・タイムズ紙の取材依頼でたまたま紹介されたユーナック(去勢された男性)のモナ・アハメドを、発表することなど考えずに13年にわたり撮り続け、結果的に2001年に『マイセルフ・モナ・アハメド』と題する本にまとめた。

モナはダニヤータにとって、荒木にとっての陽子と同じように、写真家の礎となる被写体である。
ダニヤータはその後、多くの人物を被写体とするが、被写体となった人物と現在進行形で関係を持ち続けている。
関係が続けば、時間の経過とともに、相手も変わり、自分も変わり、相手と自分の関係も変わる。
すると、過去に撮影した写真のコンテクストや意味付けも変わって来る。

ダニヤータは数十枚の写真が収納出来る衝立状の家具を9体、デリーの自宅に置いて、随時、収納する写真を入れ替えたり、配置を入れ替えたりしていると言う。
この9体の家具(写真美術館)のコレクションを〈インドの大きな家の美術館〉と称している。

ダニヤータは語る。
「わたしは常に自分の作品を積極的に変換させている生きている現役のアーティストだ」

人間が生きるということは常に変化し続けること。
ダニヤータや荒木の写真表現は、自分の生を現在進行形で表現しようとする試みだ。
また、木村俊介のインタビューも、自身の生を誠実に反映させようとする試みに思える。
振り返ってみると、私にとってはカウンセリングが正にそのようなものなのだと改めて思った。
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テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体

人生は不可解だからこそ魅力が有る

小川洋子の『凍りついた香り』を読んだ。

正解の有る世界には安心感が有るが、どこか物足りなさが有り、敏感な人間は居心地の悪さを感じる。
人類の祖先が生活していた自然界は正解の無い世界で、その中で人間は自然と対話しながら、生きるための対処法を探って来た。
農業や漁業と言った一次産業がそうだ。
工業化の時代が来ると製造技術が発達して、同じ規格の製品をいくつでも作れるようになる。
自然の影響をコントロールし、正解の有る世界が登場して来る。

弘之がコンクールで取り組んだ数学は正解の有る数学であり、彼はそこで比類ない才能を見せるが、それは決して彼にとって居心地の良い世界ではなかった。
正解し、賞賛を浴びる度に、自分が檻に閉じ込められる不自由さを感じる。
その不自由さから逃れるために秘かにスケートリンクに通い、思う存分自己を解放する。

正解の有る数学は頭だけの世界であり、そこには心や身体の居場所が無い。
弘之は心や身体のバランスを取り戻すためにスケートリンクでの自己解放を必要としたのだろう。

十六才のとき初めて訪れた海外の町、プラハ。
プラハは訪れる度に憂愁を感じさせる町だ。
そして、天才モーツァルトゆかりの別荘、ベルトラムカ。
プラハ滞在の体験は彼の心の深いところに残る。

弘之は十八才のとき突然家出し、正解の無い世界へ旅立って行く。
盲学校の寄宿舎では、頭ではなく、専ら心と身体を使った仕事に携わる。
しかる後に、頭と心と身体をバランス良く使う調香の仕事に就く。

世界を分類し、エッセンスを抽出する能力。
しかし、その能力が高ければ高いほど、自分の能力の限界がよく見えてしまう。
世界は分類しても捉えることが出来ず、分類することによって、自分自身で、正解の有る世界の檻を創り出してしまう。
天才的能力ゆえに、正解の無い広い世界で自由に遊び、楽しむことの出来ない不幸。

弘之は自分が生きた証として、プラハでの体験を総括した「記憶の泉」と名付けられた香水を涼子に遺し、この世から旅立って行く。

「岩のすき間からしたたり落ちる水滴。洞窟の湿った空気」
「締め切った書庫。埃を含んだ光」
「凍ったばかりの明け方の湖」
「緩やかな曲線を描く遺髪」
「古びて色の抜けた、けれどまだ十分に柔らかいビロード」

遺された涼子には、弘之が何故死んだのか分からない。
私にも分からない。
それは、正解の無い世界を楽しむことの出来るタイプの人間だからだ。
人生は不可解だからこそ魅力が有る。

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人生の音楽

ウィーン旅行中にオペラとコンサートを各1回鑑賞した。

オペラはプッチーニの『ラ・ボエーム』。
何回も観たオペラだが、今回改めて、このオペラの良さをしみじみと感じた。

第一幕でロドルフォが歌う『冷たい手を』。
いかにも詩人らしい女性へのアプローチ。
「貧しさの中での僕の幸せは紳士の贅沢である愛の詩や賛歌。
 夢や空想、幻想によって心意気は億万長者」
「僕の金庫から美しい瞳という2人の盗人が全ての財宝を盗み取った」

対するミミの受け答え―『私はミミ』。
「私は好きなのです
 素敵な魅力を持つものや、
 愛や春について語るもの、
 そして、夢や幻想について語るもの、
 詩という名を持つものが・・・。」
「雪解けの季節がやって来る時、
 最初の太陽は私のものなのです、
 四月の最初のくちづけは私のものなのです」
 ミミはロドルフォに勝るとも劣らない詩人。
二人の価値観は見事に呼応し、理解し合う。

二人が歌うとき、暗く寒い部屋は輝く春の野に変わる。
それはその瞬間、二人が本当に生きている世界。
そしてその瞬間、二人の歌を聴いている私達も本当に生きている。

現実の世界では貧困に阻まれ、ハッピーエンドを迎えることが出来ないが、ロドルフォの元で最期を迎えたミミの表情には深い満足感が有る。
彼女の手はもはや冷たくない。
マフに包まれて、ロドルフォの愛を確かに感じながら・・・。
ミミは短いけれども本当の人生を生きたのだ。

生き残る者はつらい。
ミミの死が受け入れられず、悲嘆にくれるロドルフォ。
しかし、時が経てば分かる。
彼がミミと過ごした日々が掛け替えのない本当の人生を生きた時間であり、自分がそのような時間を持てたことが幸福であることを。
それは表面的な豊かさや幸せとは異なり、本当に質の高い生の在り方であり、私はそれを「Genuine Life」と呼んでいる。

プッチーニは主人公達のGenuine Lifeに共感を懐いて作曲している。
聴いている私達もその瞬間Genuine Lifeを生きている。
それ故、私達は感動し、魂が解放され、救いを感じるのだ。

コンサートは楽友協会で行われたオーケストラ・モーツァルトの演奏会。
オーケストラ・モーツァルトは結成されて10年程の若手音楽家を育成する楽団だが、結成当初からクラウディオ・アバドが指導に当たって来た。
しかしながら、指揮をする予定だったアバドが病気になり、代わってベルナルド・ハイティンクが指揮をすることになった。
曲目は前半にマウリツィオ・ポリーニのピアノでベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』。
後半は同じくベートーヴェンの交響曲第6番『田園』。

ハイティンクとポリーニの二人がステージに登場した時、二人のおじいさんが支え合いながらよたよたと歩いて来るのでどうなることかと思ったが、音楽が始まった途端、懸念は払拭された。
若く、しなやかで溌剌とした音楽。
音が生きている。
ベートーヴェンの音楽には元々脈拍と呼吸が有るが、この日の演奏ではひとつひとつの音が細胞のように生きて粒立っていた。

『皇帝』のアダージョを聴いていると、立原道造のことが思い出される。
奈良から山陰を経由して長崎に辿り着いた時、病状が悪化し、友人に付き添われて東京に戻った最後の旅で、道造は繰り返しアダージョへの憧れについてノートに記す。
詩の本質は対話であるとした道造はアダージョをこよなく愛した。
愛の詩人はアダージョを聴いて魂を解き放たれ、遠いところへの郷愁を懐いた。
24才でこの世を去った道造もまたGenuine Lifeを生きたのだ。
この日のアダージョの演奏は正に愛の対話だった。

そして、後半の『田園』。
軽やかに始まる音楽。
オーケストラのレスポンスが実に良く、しなやかで若く、心が弾む。
木管のソロが一人一人実に上手く、惹き込む力がある。
いつの間にか、私も初夏の田園を逍遥している。
鳴き交わすウズラ、カッコウ、ナイチンゲール。
気持ち良い散策、心地良い音楽。
耳の聴こえなかったベートーヴェンもきっとこの心地良さを味わっていたことだろう。

人の命は、自分が味わった感動を見知らぬ他の命に伝えるためにある。
ベートーヴェンの感動は時空を超えて私達に伝わって来る。
道造が懐いた遠いところへの郷愁も時空を超えた感動によってもたらされたものだろう。

村人達の踊りの輪に加わって我を忘れた楽しいひと時。
突然、鳴り響く雷鳴。
俄かに降り来る雨。
不意を打つ稲妻。
逃げまどう人々。
吹き付ける風雨。

嵐は次第に遠ざかり、
空が明るくなって来る。
日光が差し込む。
木の葉から落ちようとする雫がきらりと光る。
暖かく、気持ち良い陽射し。
再び聞える小鳥のさえずり。
やはり田園の散策は楽しい。
生きていることは喜びだ。

ベートーヴェンの音楽は生への肯定感に満ちている。
実人生に於けるベートーヴェンは苦難の連続だが、にもかかわらず彼の音楽には人生に対するポジティヴな力がある。
それでも人生にイエスと言う。
Genuine Lifeの音楽。
聴いている私達は勇気づけられる。

コンサート後に夕食を取ったカフェを出た時、外はパラパラと冷たい雨だった。
傘がない。
それでも人生にイエスと言う。
暖かい陽射しに満ちた明日を信じられる自分がいた。

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ジャンル : 心と身体

対象喪失について

年をとると人は孤独や不安に苦しむ。
定年退職によって仕事を失い、社会的地位を失い、子供が独立し、配偶者に先立たれ、親しい友人の中には亡くなる人もいる。
体力が減退し、運動能力は低下し、視力が劣化し、病気になり易くなる。
記憶力が低下し、意欲が減退し、認知機能が衰退し、今まで出来たことが出来なくなる。
年をとることは大いなる喪失体験である。

高齢者を介護する人もまた喪失体験に苛まれる。
心身の機能が衰えた目の前の人は今までの肉親や配偶者ではない。
世話をする自分は自由に使える時間や空間を失い、仕事を辞めた場合には、今までのキャリアや社会的地位も失ってしまう。
介護する人は、孤立感や不安、怒り、負担感、無力感、悲しみ等、様々な負の感情に苦しむ。

喪失体験をすると人は何故負の感情に苦しむのだろうか。
ごく当たり前のことなので、普段、こうした疑問を持つことはないが、敢えて問う。
何故だろうか。
それは喪失する人やものが愛着と依存の対象だからだと思う。

人は生きて行く上で必ず、愛着と依存の対象を必要とする。
生まれて最初に見出す対象は母親である。
母親への愛着と依存が上手く満たされると赤ちゃんは安心感を得る。
これがこの世を生きて行く上での肯定的な感覚の源となる。

人は成長するに従って、愛着と依存の対象を拡げて行く。
家族、友人、学校や職場その他、様々な機会に出会う人々の中で対象を選択する。
自分の所有する物、住んでいる場所、自分の仕事、知識、能力、資格、地位など、人生の中で獲得した事物も対象となる。
愛着と依存の対象とは、人が生きるための命綱のようなもので、その対象がいくつも有って、支えの多い方が、より安定した生き方が可能となる。
主体的に愛着と依存の対象を選択し、自覚的に命綱を張って生きることの出来る人が自立した人である。
それは、岩壁にしがみ付き、三点確保しながら自在に登攀ルートを切り拓いて行くクライマーの姿を想わせる。

しかしながら、対象が人間関係や仕事などの社会的なもの、或いは、自分の身体能力や健康などの身体に基づくものである場合、対象はうつろい易く、人は常に喪失のリスクと隣り合っている。
通常の人生を歩んでいる場合、既存の対象を失うこともあるが、必要な対象を新たに見出し、人生の局面を乗り切って行く。
しかし、事故や災害に遭遇して、思わぬ形で一挙に多くの、或いは、非常に重要な対象を喪失してしまうこともある。
それは、ロッククライミングに譬えれば、確保していた個所が崩れて、片方の手だけで岩壁にぶら下がった状態になってしまったに等しい危機だ。
思わず、ぶら下がった手を離して楽になりたい誘惑にかられてしまうかも知れない。

対象への執着が大きい程、喪失感が拡大する。
執着を捨て、対象の喪失を受け入れ、この世の人やもののうつろい易さを認識することで人は生き延びることが出来る。
中世の日本人が無常感と呼んだ知恵だ。
それは認知の仕方を変えるメンタル面からのアプローチであり、この世で身を処して行くのに即した現実的な対処法である。

一方、うつろわない不易なものに自身を揺らがないように固定し、対象喪失のダメージを致命的なものにしない知恵も有る。
宗教心の大切さはここに有る。
神というのは不易な愛着と依存の対象である。
喪失することの無い恒久的な依存の対象を持つこと。
これはスピリチュアル面からのアプローチであり、危機を未然に防ぐ有効な方法だ。

人が生身の肉体を持った生を受ける前に、魂は完全な愛に包まれた一体感の中に在る。
この「完全な愛に包まれた一体感」が神と呼ばれるもので、人はそこで至福と安心感を感じている。
しかし、この世に生まれ出ると、人は無条件で安心感を感じることが出来ない。
この時、先ず初めに神に代わって依存の対象となり、人に安心感を与えてくれるのが母親である。
人は自分の内に至福と安心感のコアを獲得し、依存の対象を拡げ、人生を生きて行く。
そして、年を取ると共に対象を失い、やがて神の元へと還って行く。

普段の人生を生きて行く上では神を意識しなくても差支えないが、有事の際には、神の有無が大きな違いを生む。
宗教心というのは、神の記憶を忘れず、いつでも神と繋がれる状態を保つ心の営みである。
幼時、母の愛を実感として体験した人は神を素直に直感的に理解することが出来る。
そして、現世での無常を肯定的に捉え、乗り切って行き易い。
しかし、不幸にして母の愛を幼時に体験出来なかった人には神が理解し難いし、その存在が信じられない。
従って、現世の無常は自分に破滅をもたらす否定的なものと考え、怖れる。

母親の存在の大きさを改めて思う。

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人生のA&R

今では聞かれなくなったが、数年前に人事政策のA&Rという言葉が流行ったことがある。
Attraction (惹き付け)とRetention (維持)の頭文字を取ったもので、如何にして良い人財を採用し、かつ、採用した人材を辞めさせないようにするか、の戦略の意味であった。
一般に、良い人財を採用するのも難しいが、その人財をキープすることはさらに難しいのだ。

AttractionとRetentionは、人事政策の文脈で語られたが、これは営業活動に於いても成り立つ原理である。
注文を取ることは大切であり、難しいが、受注した仕事を満足の行くようにやり遂げ、次の受注につなげるように顧客を維持して行くことはより大切であり、より難しい。

A&Rは仕事だけに限らない。
恋愛・結婚に於いてもこれは真理である。
Aは意中の人の心を射止めること。
Rはパートナーの心を離れさせないこと。
この分野の悩みは全て、AttractionかRetentionのいずれかが上手く行っていないことに起因している。

人生には全てA&Rが肝要、と心得るべし。

Aに必要なものは瞬発力。
Rに必要なものは持久力。
そして、両者に必要でより重要なものは誠実さである。

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プロフィール

迷林亭主

Author:迷林亭主
迷林亭主ことカウンセリングルーム・メイウッド室長 服部治夫。
三鷹市の住宅地に佇む隠れ家的なヒーリグ・スペース。
古民家を改装したくつろぎの空間で、アートセラピーや催眠療法などを活用し、カウンセリングやヒーリング、創造性開発の援助に取り組んでいます。

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