静謐な祈り 有元利夫
東京都庭園美術館で開催中の『有元利夫 天空の音楽』を観た。
館内に入ると最初に先ず、『花降る日』が展示されている。
画面の質感がまるで壁面を切り取って来たようにゴツゴツとしている。
中世のフレスコ画の画面を見事に再現している。
この画家は只者ではない。
写真で見るとよく分からないが、実物の絵を観ると、有元利夫の絵に感じる不思議な静謐感の多くを、この丁寧に塗られた画面の質感が支えていることが分かる。
この静謐さは、大切な音を聴き取るための準備なのだろう。
キリスト教の神は姿形を持たないので偶像で表すことが出来ず、神にアクセスする方法として音楽が発達した。
つまり、西洋音楽とはもともと祈りの音楽なのだ。
有元が愛したバロック音楽の作曲家達も祈りの音楽の伝統を引く職人達だ。
彼等の音楽の中には自ずと霊性が宿る。
有元が耳を澄ませて聴いたのはその霊性であり、それが霊感となって彼の下に降りて来た時、絵筆を取ったのだろう。
私は『花降る日』のらせんの塔の巻き方に違和感を覚えていた。
塔の形状はイラクのサマラにあるマルウィヤ・ミナレットにそっくりだが、あれは反時計回りに上って行く。
また、有名なブリューゲルのバベルの塔の絵も、反時計回りに上って行く構造になっている。
しかるに、『花降る日』の塔は時計回りに上って行く。
有元利夫が仏教にも関心を持っていたことを知って、もしやと思った。
会津若松に現存する栄螺堂(さざえどう)は仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて時計周りに上って行く。
また、降る花びらは向きがあちこちバラバラだが、これも散華の表現とも取れる。
描く技法でも内容でも巧みに和洋を融合し、有元独自の祈りの世界を表現することに成功している。
画面に描かれた女性像は有元自身の姿でもあり、また、観る者自身の姿でもある。
私は絵に観入り、画面の女性の位置に自分の身を置いた時、音楽が聴こえた。
有元利夫が絵画という瓶詰めに封じ込めたスピリットに触れた思いがした。
館内に入ると最初に先ず、『花降る日』が展示されている。
画面の質感がまるで壁面を切り取って来たようにゴツゴツとしている。
中世のフレスコ画の画面を見事に再現している。
この画家は只者ではない。
写真で見るとよく分からないが、実物の絵を観ると、有元利夫の絵に感じる不思議な静謐感の多くを、この丁寧に塗られた画面の質感が支えていることが分かる。
この静謐さは、大切な音を聴き取るための準備なのだろう。
キリスト教の神は姿形を持たないので偶像で表すことが出来ず、神にアクセスする方法として音楽が発達した。
つまり、西洋音楽とはもともと祈りの音楽なのだ。
有元が愛したバロック音楽の作曲家達も祈りの音楽の伝統を引く職人達だ。
彼等の音楽の中には自ずと霊性が宿る。
有元が耳を澄ませて聴いたのはその霊性であり、それが霊感となって彼の下に降りて来た時、絵筆を取ったのだろう。
私は『花降る日』のらせんの塔の巻き方に違和感を覚えていた。
塔の形状はイラクのサマラにあるマルウィヤ・ミナレットにそっくりだが、あれは反時計回りに上って行く。
また、有名なブリューゲルのバベルの塔の絵も、反時計回りに上って行く構造になっている。
しかるに、『花降る日』の塔は時計回りに上って行く。
有元利夫が仏教にも関心を持っていたことを知って、もしやと思った。
会津若松に現存する栄螺堂(さざえどう)は仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて時計周りに上って行く。
また、降る花びらは向きがあちこちバラバラだが、これも散華の表現とも取れる。
描く技法でも内容でも巧みに和洋を融合し、有元独自の祈りの世界を表現することに成功している。
画面に描かれた女性像は有元自身の姿でもあり、また、観る者自身の姿でもある。
私は絵に観入り、画面の女性の位置に自分の身を置いた時、音楽が聴こえた。
有元利夫が絵画という瓶詰めに封じ込めたスピリットに触れた思いがした。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術