小谷元彦『幽体の知覚』展を観る
森美術館で開催中の小谷元彦の『幽体の知覚』展を観た。
身体感覚を伴った気付きの有ったのが「インフェルノ」。
八面の半透明なスクリーンで囲まれた円堂のような部屋が在り、各スクリーンには轟々と流れ落ちる滝の映像が映し出されている。
鑑賞者はその部屋の中に入って鑑賞する。
靴を脱いで、ステップを上がって、部屋の入口の垂れ幕を脇に寄せて中に入ろうとした時、鏡の張られた床が底の無い空間のように思われて、足を踏み出すのを思わず躊躇ってしまった。
中に入ると、床も天井も鏡張りで、轟音と共に流れ落ちる滝の映像に囲まれる。
まるでエレベーターに乗っているようで、床がグングン上昇して行くように感じる。
今度は映像が逆転して、滝が下から上へと流れる。
すると、自分の身体が奈落の底に落下して行くような錯覚を感じる。
自分は動いておらず、周りの映像が動いているだけであることは頭で分かっているのに、身体感覚としては、自分の身体が上昇したり、落下したりする感覚を確かに感じる。
知覚というものが相対的な関係の中で働くものだ、ということにまざまざと気付かされる。
最初のうちは圧倒されていて、どうしても自分が動いている感覚から抜け出ることが出来なかったが、それでも、しばらくするうちに、自分の主体的な位置感覚を取り戻し、周りの映像が動いているだけだ、ということを感じ取れるようになって行く。
「宇宙に立つ、とはこういうことなのだ」と思った。
「スケルトン」という作品も面白い。
この作者には骨やドクロを題材にしたものが多いが、骨というもので、眼に見えない時間というものを表現しているかのようだ。
「スケルトン」は天井から吊るされた、蝋(樹脂)が垂れて固まった長い棒状の物体で、私は鍾乳石を想起した。
鍾乳石は一滴、一滴が長い時間かかって堆積して出来あがったものだが、一方、鍾乳洞という観点で見れば、長い時間をかけて余計なものが取り除かれ、残ったものが鍾乳石である、とも言える。
「アイ・シー・オール(I see all)」という木彫の作品。
沢山の蛭が這う木の幹の上で、阿修羅像を想わせる少女が左右の親指を両目に突き立てようとしている。
その表情は悲痛だ。
全てのものが見えてしまうその恐さから逃れようとして少女は自分の眼を潰そうとしているのだろうか。
私が『幽体の知覚』展を通して観て感じたことは、作者が眼に見えないものを心地よいもの、好ましいものとは捉えていないこと、むしろ、私達の神経に触るもの、心をざわつかせるもの、或いは、私達の実存を脅かす恐れのあるものとして捉えているように思われることだ。
それは、「インフェルノ」や「スケルトン」のようなタイトルの付け方からも窺える。
本当は見たくないが、見ずにはいられない。
怖いからこそ、逃げずに対決したい。
そのような意気込みを感じる。
造形技術は素晴らしい。
そう思うと展覧会場が「洗練されたお化け屋敷」のように見えて来た。
身体感覚を伴った気付きの有ったのが「インフェルノ」。
八面の半透明なスクリーンで囲まれた円堂のような部屋が在り、各スクリーンには轟々と流れ落ちる滝の映像が映し出されている。
鑑賞者はその部屋の中に入って鑑賞する。
靴を脱いで、ステップを上がって、部屋の入口の垂れ幕を脇に寄せて中に入ろうとした時、鏡の張られた床が底の無い空間のように思われて、足を踏み出すのを思わず躊躇ってしまった。
中に入ると、床も天井も鏡張りで、轟音と共に流れ落ちる滝の映像に囲まれる。
まるでエレベーターに乗っているようで、床がグングン上昇して行くように感じる。
今度は映像が逆転して、滝が下から上へと流れる。
すると、自分の身体が奈落の底に落下して行くような錯覚を感じる。
自分は動いておらず、周りの映像が動いているだけであることは頭で分かっているのに、身体感覚としては、自分の身体が上昇したり、落下したりする感覚を確かに感じる。
知覚というものが相対的な関係の中で働くものだ、ということにまざまざと気付かされる。
最初のうちは圧倒されていて、どうしても自分が動いている感覚から抜け出ることが出来なかったが、それでも、しばらくするうちに、自分の主体的な位置感覚を取り戻し、周りの映像が動いているだけだ、ということを感じ取れるようになって行く。
「宇宙に立つ、とはこういうことなのだ」と思った。
「スケルトン」という作品も面白い。
この作者には骨やドクロを題材にしたものが多いが、骨というもので、眼に見えない時間というものを表現しているかのようだ。
「スケルトン」は天井から吊るされた、蝋(樹脂)が垂れて固まった長い棒状の物体で、私は鍾乳石を想起した。
鍾乳石は一滴、一滴が長い時間かかって堆積して出来あがったものだが、一方、鍾乳洞という観点で見れば、長い時間をかけて余計なものが取り除かれ、残ったものが鍾乳石である、とも言える。
「アイ・シー・オール(I see all)」という木彫の作品。
沢山の蛭が這う木の幹の上で、阿修羅像を想わせる少女が左右の親指を両目に突き立てようとしている。
その表情は悲痛だ。
全てのものが見えてしまうその恐さから逃れようとして少女は自分の眼を潰そうとしているのだろうか。
私が『幽体の知覚』展を通して観て感じたことは、作者が眼に見えないものを心地よいもの、好ましいものとは捉えていないこと、むしろ、私達の神経に触るもの、心をざわつかせるもの、或いは、私達の実存を脅かす恐れのあるものとして捉えているように思われることだ。
それは、「インフェルノ」や「スケルトン」のようなタイトルの付け方からも窺える。
本当は見たくないが、見ずにはいられない。
怖いからこそ、逃げずに対決したい。
そのような意気込みを感じる。
造形技術は素晴らしい。
そう思うと展覧会場が「洗練されたお化け屋敷」のように見えて来た。
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