クォンタム・ペインティングの画家 ― ポール・セザンヌ
国立新美術館で開催中の『セザンヌ パリとプロヴァンス』展を観た。
先ず、初期の静物画に於ける質感の強さに圧倒される。
黒い背景が、いやが上にもテーブルに置かれた物質を前に押し出すように感じられる。この画家は質感だけにこだわってこの絵を描いているのだ。
ジャス・ド・ブッファンの大広間を飾った『四季』は、セザンヌの意外な面を見せてくれる。
これらの古典的寓意画には、自然の事物を眼の前にした写生画には見られない色彩の澄んだシンプルさが有り、理性の画家、セザンヌにとって描き易い絵画形式だったのではないか、と思われる。
4枚の絵を通じて心象に残る色は赤。
春に於いてひときわ目立つ色鮮やかな赤は、夏、秋と季節が移るに従って大人しくなって行くが、冬に於いては火となって、再び巡り来る春に向けての備えをしているようだ。
冬の火からは昇天して行く聖女の影が2つ。
セザンヌの描く風景画は自然を理性的な法則で理解しようとする格闘のようだ。
印象派の画家達に触発されて自然の風景に向かったセザンヌではあるが、彼は他の画家達のように自然を感覚・感情で捉えて共感的に描くことが出来なかった。
セザンヌは風景の中に定規を入れて描こうと試みる。
彼の絵の中には、建物のように直線を持った人工物が入ったものが多い。
直線を得て、彼の絵は活き活きとして来る。
そして、自然の線も擬直線となり、新しい秩序を獲得する。
感覚・感情で見る風景ではなく、その裏に在る本質や事物の永続性を描き出す、という方向性が開けて来る。
『首吊りの家、オーヴェール=シュル=オワーズ』の誘うような風景。
抜けるブルーグレーの空の美しさ。
1882年以降の風景画は、緑と赤茶とブルーグレーの3色で描かれている。
唐三彩ならぬセザンヌ三彩。
本質を究めて表現すると、風景は詰まるところこの三彩で十分となる。
空即是色。
但し、風景画としての多様性は無くなって来る。
セザンヌは人間の身体も自然の風物と同様に描いた。
『3人の水浴の女たち』の身体は立木と同じような質感を持って描かれ、ブルーグレーがかった肌からは、画面全体が水浴しているような印象を受ける。
画家は、樹木も人体も同じ原子から成る構成物であることを見抜いており、それを顕わにするために、ブルーグレーの魔法を掛けたのだろうか。
セザンヌは肖像画を描く時にも、モデルへの感情移入をせず、被写体の質感をしっかりと表現する。
情緒的な要素に捉われることを避けるためか、画中の人物は視線を逸らしている。
それ故か、彼の肖像画には思慮深い静謐感が満ちている。
画家の理性的な側面が鏡に映されているかのようだ。
セザンヌの持ち味が一番活かされている分野が静物画である。
事物の裏に在る本質を追究しているうちに、絵を描く目的が本質を表現するための手段と化して来る。
そうなって来ると、自然は動かすことが出来ず、人間も変えることが出来ないが、静物画の被写体となる事物は、画家の好みに従って好きなようにアレンジ出来る。
好みにフィットして構成された物は、描かれると、実物よりも存在感を持つ。
緑色の釉薬が掛かった壺も、ラム酒の瓶も、実物よりも絵の方がはるかに活き活きとして生命を持っている。
意図的に構成された静物画の画面では、風景画や水浴図に見られるあのブルーグレーが効果的に用いられ、シックな透明感と拡がりを感じさせる。
『四季』に描かれた印象的な赤が、静物画では、別なコンテクストの中で華麗に蘇る。
それは生命の本質を見事に表現している。
セザンヌが同時代の印象派の画家達と決定的に違ったのは、描く対象を共感的に視ることが出来なかったことだろう。
それだからこそ逆に、不器用なまでに探究を続けて、事物を表面の形態ではなく、それを構成している原子レベル、いや、量子レベルで見ることが出来たのだと思う。
そして、その量子の世界を画面の中で、独自のやり方で再創造したのだ。
クォンタム・ペインティング、
量子画法の画家。
セザンヌの描いているものはもはや具象ではない。
その意味で、彼の絵は抽象画に近いと言えるかも知れない。
先ず、初期の静物画に於ける質感の強さに圧倒される。
黒い背景が、いやが上にもテーブルに置かれた物質を前に押し出すように感じられる。この画家は質感だけにこだわってこの絵を描いているのだ。
ジャス・ド・ブッファンの大広間を飾った『四季』は、セザンヌの意外な面を見せてくれる。
これらの古典的寓意画には、自然の事物を眼の前にした写生画には見られない色彩の澄んだシンプルさが有り、理性の画家、セザンヌにとって描き易い絵画形式だったのではないか、と思われる。
4枚の絵を通じて心象に残る色は赤。
春に於いてひときわ目立つ色鮮やかな赤は、夏、秋と季節が移るに従って大人しくなって行くが、冬に於いては火となって、再び巡り来る春に向けての備えをしているようだ。
冬の火からは昇天して行く聖女の影が2つ。
セザンヌの描く風景画は自然を理性的な法則で理解しようとする格闘のようだ。
印象派の画家達に触発されて自然の風景に向かったセザンヌではあるが、彼は他の画家達のように自然を感覚・感情で捉えて共感的に描くことが出来なかった。
セザンヌは風景の中に定規を入れて描こうと試みる。
彼の絵の中には、建物のように直線を持った人工物が入ったものが多い。
直線を得て、彼の絵は活き活きとして来る。
そして、自然の線も擬直線となり、新しい秩序を獲得する。
感覚・感情で見る風景ではなく、その裏に在る本質や事物の永続性を描き出す、という方向性が開けて来る。
『首吊りの家、オーヴェール=シュル=オワーズ』の誘うような風景。
抜けるブルーグレーの空の美しさ。
1882年以降の風景画は、緑と赤茶とブルーグレーの3色で描かれている。
唐三彩ならぬセザンヌ三彩。
本質を究めて表現すると、風景は詰まるところこの三彩で十分となる。
空即是色。
但し、風景画としての多様性は無くなって来る。
セザンヌは人間の身体も自然の風物と同様に描いた。
『3人の水浴の女たち』の身体は立木と同じような質感を持って描かれ、ブルーグレーがかった肌からは、画面全体が水浴しているような印象を受ける。
画家は、樹木も人体も同じ原子から成る構成物であることを見抜いており、それを顕わにするために、ブルーグレーの魔法を掛けたのだろうか。
セザンヌは肖像画を描く時にも、モデルへの感情移入をせず、被写体の質感をしっかりと表現する。
情緒的な要素に捉われることを避けるためか、画中の人物は視線を逸らしている。
それ故か、彼の肖像画には思慮深い静謐感が満ちている。
画家の理性的な側面が鏡に映されているかのようだ。
セザンヌの持ち味が一番活かされている分野が静物画である。
事物の裏に在る本質を追究しているうちに、絵を描く目的が本質を表現するための手段と化して来る。
そうなって来ると、自然は動かすことが出来ず、人間も変えることが出来ないが、静物画の被写体となる事物は、画家の好みに従って好きなようにアレンジ出来る。
好みにフィットして構成された物は、描かれると、実物よりも存在感を持つ。
緑色の釉薬が掛かった壺も、ラム酒の瓶も、実物よりも絵の方がはるかに活き活きとして生命を持っている。
意図的に構成された静物画の画面では、風景画や水浴図に見られるあのブルーグレーが効果的に用いられ、シックな透明感と拡がりを感じさせる。
『四季』に描かれた印象的な赤が、静物画では、別なコンテクストの中で華麗に蘇る。
それは生命の本質を見事に表現している。
セザンヌが同時代の印象派の画家達と決定的に違ったのは、描く対象を共感的に視ることが出来なかったことだろう。
それだからこそ逆に、不器用なまでに探究を続けて、事物を表面の形態ではなく、それを構成している原子レベル、いや、量子レベルで見ることが出来たのだと思う。
そして、その量子の世界を画面の中で、独自のやり方で再創造したのだ。
クォンタム・ペインティング、
量子画法の画家。
セザンヌの描いているものはもはや具象ではない。
その意味で、彼の絵は抽象画に近いと言えるかも知れない。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
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