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自画像としての劇場 ― 『記憶のドラマ 依田洋一朗 展』

三鷹市美術ギャラリーで開催中の『記憶のドラマ 依田洋一朗 展』を観た。

会場に入ると先ず、美術学校時代に描いた初期の絵画に惹きつけられる。

一人の少女をモデルにして描いた4枚の絵。
画面を覆うのは暗い赤と黒、そして僅かな白。
暗い赤は土の色でもあり、血の色でもあり、生の情念を感じさせる。
劇場空間という闇の中で、人工的な光に生命を得て繰り広げられるドラマを描く後年の作品の基調となる要素がここに在る。
「彼女の顔 #2」は眼の前に出現する正体の分からない存在。
怖しいが、何故か心惹かれるもの。
それは、作者自身の自画像のように見える。
また、幕の下りた劇場をも連想させる。
「夜の彷徨」では、血の海に浮かぶ少女の首が自分の分身であることを、作者自身分かって描いているように思われる。

「静寂のプール」は作者の原風景と言える特別な絵。
水は無意識の宝庫。
その水は自然の水ではないが、時を経ることによって、依代としての力を得ているようだ。
遠景の芝生の緑。
手前の柵の塗装の緑。
そして、プールの水の暗い緑。
人工的な緑の色調が後年の彼の絵の中で存在感を持って来る。

依田にとって、劇場そのものが生命を持った生きものだったのではないかと思う。
闇の中で生の情念を秘めたもの。
それは「彼女の顔 #2」で描かれたイメージの変形であり、また、依田自身の姿でもあった。
「RKOキース劇場 #1」や「出口」に見られる死のイメージの身を切られるような痛々しさは、作者が自身の痛みとして身体で感じているからだろう。

21世紀に入ると、哀切な喪失感が緩和して来る。
「ハーフムーン・ホテル」に描かれたカドリー・キヤーニンは随分と小さい。
そして依田は、スクリーンの向こうとこちらという隔てを取り払い、俳優と現実の風景とを自在に組み合わせて、想像的な画面構成を創り上げて行く。
しかし私はこれらの作品に対して、20世紀に描かれた諸作品ほど胸を打つ感じを覚えない。
作者自身の身体感覚から離れた作風になってしまったように感じられる。

何枚も描かれた「劇場の椅子」は依田の自画像のように思われる。
1999年に描かれた諸作品は無骨だが、写実的で椅子の温もりが伝わって来る。
2010年に描かれたシリーズは非常にスマートで美しい。
黒い背景の中に優美に浮かび上がり、様式的完成度が高い。
颯爽とカーテンコールで挨拶している感じ。
2011年にタイムズ・スクエア劇場やジーグフェルドやリッジウッドの椅子を描いたシリーズでは、椅子がぼんやりとし、背景の色も椅子と同様の赤色系で、図と地が渾然と溶け合っている。
そこには、作者の活き活きとした心地良さが感じられる。
自分の分身である劇場と自分自身が一体になっている恍惚感。

2011年、2012年の作品は、人物を配した絵と劇場内部の風景を漠然と描いた絵に大別されるが、私は、後者の抽象性の中に依田の生命の在り処を感じて好きだ。
大きく抽象画に舵を切った依田の絵を観てみたい。
その時、「静寂のプール」はどのような変容を見せるだろうか。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

迷林亭主

Author:迷林亭主
迷林亭主ことカウンセリングルーム・メイウッド室長 服部治夫。
三鷹市の住宅地に佇む隠れ家的なヒーリグ・スペース。
古民家を改装したくつろぎの空間で、アートセラピーや催眠療法などを活用し、カウンセリングやヒーリング、創造性開発の援助に取り組んでいます。

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