2つのパトス ― ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェス
原美術館で開催中の『MU[無]―ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェス』展を観た。
Gallery I のコラボがピッタリと呼応していて素晴らしい。
部屋の中は教会のように暗い。
部屋の中心に、行く手を阻む衝立のように立ちはだかるシャフェスの作品「私が震えるのを見よ」。
それはまるで懺悔聴聞を行うボックスのようだ。
三方の壁面に投影された映像。
画面の中の男達は瞬きもせず、じっと押し黙っている。
ただ、髪の毛だけが風に揺れている。
男達は何も語らない。
けれども無言の告白に突き動かされるのだろうか、懺悔聴聞ボックスは震えている。
じっと動かず、髪の毛を風になびかす男達の姿は、葉を震わす樹木を抱いた大地を連想させる。
人間というものは正に地球の一部なのだということに気付かされる。
1階廊下に掛けられた8枚の小型画面に火山の噴火が映し出されているが、これは不動の男達の姿の別の表現だとも言える。
不動の男達の映像のタイトル「火の娘たち」にしっくりと納得が行く。
Gallery V の映像インスタレーション「少年という男、少女という女」。
喧騒の場末。
貧しい人達が垣間見せる聖なる面差し。
街角で燃えさかる火。
火はどこでも公平で、清浄。
人の心の中で静かに燃える火。
地中から外へと出る機をうかがう火。
ペドロ・コスタの映像には熱いものを発信せんとするパトスがある。
サンルームの外に置かれたルイ・シャフェスの「月光」。
地表にうずくまったその姿は考える人。
思索的で、月の光の如くリフレクティブ。
「燃やされた声の灰塵」は鉄で出来た墓標。
膨大な二酸化炭素を凝縮し結晶化した鍾乳石。
そこにはかつて宙を舞った無数の言葉の記憶が封印されている。
「虚無より軽く」は長い舌。
語られるのは嘘、虚構、物語。
それは虚無を覗くより心を軽くする。
ルイ・シャフェスの彫像には受信したものを封じ固める冷静なパトスがある。
情熱のパトスと冷静のパトス。
コラボの空間に佇むと、両極の間を飛び交う無言の声が身体を通り抜けて行くのを感じる。
『MU[無]』というタイトルはパラドキシカルだ。
ここには豊穣な有が満ち溢れている。
∞=0という意味での無なのだ。
Gallery I のコラボがピッタリと呼応していて素晴らしい。
部屋の中は教会のように暗い。
部屋の中心に、行く手を阻む衝立のように立ちはだかるシャフェスの作品「私が震えるのを見よ」。
それはまるで懺悔聴聞を行うボックスのようだ。
三方の壁面に投影された映像。
画面の中の男達は瞬きもせず、じっと押し黙っている。
ただ、髪の毛だけが風に揺れている。
男達は何も語らない。
けれども無言の告白に突き動かされるのだろうか、懺悔聴聞ボックスは震えている。
じっと動かず、髪の毛を風になびかす男達の姿は、葉を震わす樹木を抱いた大地を連想させる。
人間というものは正に地球の一部なのだということに気付かされる。
1階廊下に掛けられた8枚の小型画面に火山の噴火が映し出されているが、これは不動の男達の姿の別の表現だとも言える。
不動の男達の映像のタイトル「火の娘たち」にしっくりと納得が行く。
Gallery V の映像インスタレーション「少年という男、少女という女」。
喧騒の場末。
貧しい人達が垣間見せる聖なる面差し。
街角で燃えさかる火。
火はどこでも公平で、清浄。
人の心の中で静かに燃える火。
地中から外へと出る機をうかがう火。
ペドロ・コスタの映像には熱いものを発信せんとするパトスがある。
サンルームの外に置かれたルイ・シャフェスの「月光」。
地表にうずくまったその姿は考える人。
思索的で、月の光の如くリフレクティブ。
「燃やされた声の灰塵」は鉄で出来た墓標。
膨大な二酸化炭素を凝縮し結晶化した鍾乳石。
そこにはかつて宙を舞った無数の言葉の記憶が封印されている。
「虚無より軽く」は長い舌。
語られるのは嘘、虚構、物語。
それは虚無を覗くより心を軽くする。
ルイ・シャフェスの彫像には受信したものを封じ固める冷静なパトスがある。
情熱のパトスと冷静のパトス。
コラボの空間に佇むと、両極の間を飛び交う無言の声が身体を通り抜けて行くのを感じる。
『MU[無]』というタイトルはパラドキシカルだ。
ここには豊穣な有が満ち溢れている。
∞=0という意味での無なのだ。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術