黄昏の守護霊 ― 『ラファエル前派展』
森アーツセンターギャラリーで開催中の『ラファエル前派展』を観た。
「ラファエル前派」と一括りに語られるが、そこに集った画家たちの作風は多様だ。
しかし、そこに共通するのは、同時代の社会環境とそこに生きる自分たちの内面の世界との乖離を乗り越えるための絵画表現を創造したい、という思いだったように思われる。
隆盛を極める19世紀の英国は正に昼の世界。
一方、文学に傾倒する思索的、夢想的な若い画家たちの心の中は夜の世界。
技術革新が進み、経済が発展していく荒々しい現実をどのように捉え、自分の心との調和を図るべきか、という課題は彼等にとって切実な問題だったはずだ。
現実世界に生きる人間のダイナミズムを歴史画のシーンや文学作品のコンテクストの中で描くのは、昼の世界の出来事を安全に夜の世界に取り込むための工夫だろう。
近代生活を描いたリアリズムの風俗画も比喩的、暗示的であり、文学的フィルターを通してその実相を理解するしかけが施してある。
そして、昼から夜への移行の時である夕暮れを描いた絵が多く、
同様に、生と死のあわいを描いた作品も多い。
ラファエル前派の画家たちの思いと芸術的試みは同時代の英国市民のニーズに合っており、共感を持って迎えられた。
かくて「ラファエル前派」は絵画史上、確固たるブランド・イメージを確立する。
ミレイの『安息の谷間「疲れし者の安らぎの場」』。
夕暮れ時を描いた代表的な絵。
昼の活動と夜の静寂が交代するあわいの時間。
墓穴を掘る左の尼僧の注意は画面の中の世界に集中している。
静かに座っている右の尼僧は画面の外(こちら)にいる私たちを見ている。
左の尼僧によって、眼の前に見える世界で一心不乱に働く姿を死への準備の活動として客観的に描き、右の尼僧が、それをどう観るか、と私たちに問いかけているようだ。
この絵の安らかな雰囲気が、私たち自身の人生の活動を安心して省みることができる装置の役割を果たしている。
ミレイの代表作『オフィーリア』。
オフィーリアのドレスの色柄は枯れ草と同じ。
彼女の下半身は既に朽ちて、自然と一体化しているように見える。
右手に掴んだ花の赤い色は生命を思わせる。
彼女の左脚の脇の水面に漂う赤い花は左手からこぼれ落ちたものだろうか。
オフィーリアの命は既に半分失われているのだ。
半眼開いたオフィーリアの眼は何を見ているのだろうか。
ミレイのリアリズムは、死とは自然に還ることなのだ、と教えてくれる。
対象と一定の距離を取って客観的に描くミレイと異なり、ロセッティの絵は対象との距離が近く、主観性が強い。
亡き妻エリザベス・シダルをモデルとしてベアトリーチェの今わの際を描いた『ベアタ・ベアトリクス』。
私はこの絵に、シダルの亡霊とロセッティが交歓する夢幻能の世界を感じる。
自分に多大な贈り物を残してくれた亡き妻への深い感謝と愛。
今の自分が在るのはシダルのお蔭。
ベアトリーチェにケシの花を差し出す赤いハトはロセッティの分身だろう。
亡き妻が安らかな眠りに就けるようにとの心を込めた贈り物。
そしてロセッティは亡きシダルの霊に、ベアトリーチェがダンテを天国に導いたように、今後の自分の人生に於ける魂の導きを頼む。
この絵を描くことによって、ロセッティは亡き妻を守護霊として自分自身の中に内在化したのだ。
バーン=ジョーンズの『「愛」に導かれる巡礼』。
この絵は一見ベアトリーチェがダンテを導く姿を描いたもののようにも見える。
しかし、描かれた世界は天国ではない。
何と暗く、荒涼とした風景だろうか。
この絵の構図は、レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』を彷彿させる。
対峙する二人の人物。
左の人物が右に向かって前かがみになっている。
天使の羽も「愛」の羽もリアルな鳥類の羽。
遠景に死を暗示する糸杉の影。
『受胎告知』は誕生を前にした情景を描いたものであるのに対し、この絵は死を前にした情景を描いたものだ。
死を間近に感じた画家(黒衣の巡礼)をゴール(死)に導いて行く愛の守護霊。
ここでは愛と死は同義語なのだ。
静なる状態が死、動なる状態が愛。
愛は光輝くものではないが、死は怖れるものではない。
死と死とのつかの間を生きる生の原動力が愛であり、人生そのものが愛とも言える。
黄昏の荒涼とした世界には聖霊が満ちており、巡礼の辿る道は間違っていない。
いつの時代でも、いかに自分の心を傷付けずに社会環境に順応するかは難しい課題だ。
ラファエル前派の諸作品が教えてくれる手法。
外部に満ち溢れたおびただしい情報を、物語性を持ったイメージに整理して安全に心の中に取り込む手法は、視界不良の現代日本に生きる私たちにとっても心強い守護霊になると思う。
「ラファエル前派」と一括りに語られるが、そこに集った画家たちの作風は多様だ。
しかし、そこに共通するのは、同時代の社会環境とそこに生きる自分たちの内面の世界との乖離を乗り越えるための絵画表現を創造したい、という思いだったように思われる。
隆盛を極める19世紀の英国は正に昼の世界。
一方、文学に傾倒する思索的、夢想的な若い画家たちの心の中は夜の世界。
技術革新が進み、経済が発展していく荒々しい現実をどのように捉え、自分の心との調和を図るべきか、という課題は彼等にとって切実な問題だったはずだ。
現実世界に生きる人間のダイナミズムを歴史画のシーンや文学作品のコンテクストの中で描くのは、昼の世界の出来事を安全に夜の世界に取り込むための工夫だろう。
近代生活を描いたリアリズムの風俗画も比喩的、暗示的であり、文学的フィルターを通してその実相を理解するしかけが施してある。
そして、昼から夜への移行の時である夕暮れを描いた絵が多く、
同様に、生と死のあわいを描いた作品も多い。
ラファエル前派の画家たちの思いと芸術的試みは同時代の英国市民のニーズに合っており、共感を持って迎えられた。
かくて「ラファエル前派」は絵画史上、確固たるブランド・イメージを確立する。
ミレイの『安息の谷間「疲れし者の安らぎの場」』。
夕暮れ時を描いた代表的な絵。
昼の活動と夜の静寂が交代するあわいの時間。
墓穴を掘る左の尼僧の注意は画面の中の世界に集中している。
静かに座っている右の尼僧は画面の外(こちら)にいる私たちを見ている。
左の尼僧によって、眼の前に見える世界で一心不乱に働く姿を死への準備の活動として客観的に描き、右の尼僧が、それをどう観るか、と私たちに問いかけているようだ。
この絵の安らかな雰囲気が、私たち自身の人生の活動を安心して省みることができる装置の役割を果たしている。
ミレイの代表作『オフィーリア』。
オフィーリアのドレスの色柄は枯れ草と同じ。
彼女の下半身は既に朽ちて、自然と一体化しているように見える。
右手に掴んだ花の赤い色は生命を思わせる。
彼女の左脚の脇の水面に漂う赤い花は左手からこぼれ落ちたものだろうか。
オフィーリアの命は既に半分失われているのだ。
半眼開いたオフィーリアの眼は何を見ているのだろうか。
ミレイのリアリズムは、死とは自然に還ることなのだ、と教えてくれる。
対象と一定の距離を取って客観的に描くミレイと異なり、ロセッティの絵は対象との距離が近く、主観性が強い。
亡き妻エリザベス・シダルをモデルとしてベアトリーチェの今わの際を描いた『ベアタ・ベアトリクス』。
私はこの絵に、シダルの亡霊とロセッティが交歓する夢幻能の世界を感じる。
自分に多大な贈り物を残してくれた亡き妻への深い感謝と愛。
今の自分が在るのはシダルのお蔭。
ベアトリーチェにケシの花を差し出す赤いハトはロセッティの分身だろう。
亡き妻が安らかな眠りに就けるようにとの心を込めた贈り物。
そしてロセッティは亡きシダルの霊に、ベアトリーチェがダンテを天国に導いたように、今後の自分の人生に於ける魂の導きを頼む。
この絵を描くことによって、ロセッティは亡き妻を守護霊として自分自身の中に内在化したのだ。
バーン=ジョーンズの『「愛」に導かれる巡礼』。
この絵は一見ベアトリーチェがダンテを導く姿を描いたもののようにも見える。
しかし、描かれた世界は天国ではない。
何と暗く、荒涼とした風景だろうか。
この絵の構図は、レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』を彷彿させる。
対峙する二人の人物。
左の人物が右に向かって前かがみになっている。
天使の羽も「愛」の羽もリアルな鳥類の羽。
遠景に死を暗示する糸杉の影。
『受胎告知』は誕生を前にした情景を描いたものであるのに対し、この絵は死を前にした情景を描いたものだ。
死を間近に感じた画家(黒衣の巡礼)をゴール(死)に導いて行く愛の守護霊。
ここでは愛と死は同義語なのだ。
静なる状態が死、動なる状態が愛。
愛は光輝くものではないが、死は怖れるものではない。
死と死とのつかの間を生きる生の原動力が愛であり、人生そのものが愛とも言える。
黄昏の荒涼とした世界には聖霊が満ちており、巡礼の辿る道は間違っていない。
いつの時代でも、いかに自分の心を傷付けずに社会環境に順応するかは難しい課題だ。
ラファエル前派の諸作品が教えてくれる手法。
外部に満ち溢れたおびただしい情報を、物語性を持ったイメージに整理して安全に心の中に取り込む手法は、視界不良の現代日本に生きる私たちにとっても心強い守護霊になると思う。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術