親密さへの渇望と怖れ ― 『冷たい炎の画家 ヴァロットン展』
三菱一号館美術館で開催中の『冷たい炎の画家 ヴァロットン展』を観た。
先ず眼に飛び込んで来る「20歳の自画像」には、強がっているが自信の無い画家の繊細さ、心の弱さがにじみ出ている。
その弱さが12年後の1897年に描かれた「自画像」では見事に封じられ、挑むような不遜さが前面に現れている。
同じく1897年に描かれた「タデ・ナタンソン」の肖像画。
そして、1901年に描かれた「エミール・ゾラの装飾的肖像」。
これら正面を向いた肖像の表情には、共通して、淋しさと諦念が在る。
それは勿論、描かれた人物が持っているものだろうが、それに共感する画家自身の心が投影されているようにも感じられる。
「美しい夕暮れ」。
タロット・カードを連想させる印象的な版画。
距離ある彼岸に在るもの故、手を伸ばしても届かないところに在るもの故、心安らかに憧れ求め、その美しさを味わうことが出来る。
しかし、人物の後ろ姿には孤愁がにじむ。
〈アンティミテ〉シリーズの魅力的な木版画。
ソファに腰掛けた男女が優しく抱き合う素敵な絵に魅了される。
しかし、その絵に付けられたタイトルは「嘘」。
ちょっとしたことに傷付いてしまう生牡蠣のような感受性を持った画家は、心の鎧を脱いで親密さの中に身を投じることが出来ない。
「嘘」とか「お金」とか「もっともな理由」とか、否定的なタイトルで防衛的な枠組みを作ることによって、ようやく親密さに触れることが可能となる。
「夕食、ランプの光」。
この絵の焦点は正面に座る少女に当たっている。
円卓を囲む他の家族3名は皆、少女に注目している。
そして、当の少女は真直ぐな眼で正面に座った画家を見詰めている。
その眼差しには好意が感じられる。
しかし、画家は少女の好意を素直に受け止めることが出来ず、後ろに退く。
自分の背後に隠れて、少女の好意を秘かに感じている。
この自らが前面に出ることを良しとしない姿勢は「赤い服を着た後姿の女性のいる室内」にも色濃く表れている。
あくまでも引いた視点で、出来事の全貌を客観視したい、という指向が強く出ている。
「ボール」。
画面右手に転がっていく赤いボールには瑞々しい生命力が在る。
無心に赤いボールを追いかける少女。
少女の背後には黒い影が忍び寄って来る。
けれども少女はその影に気付かない。
少女に迫る危険。
しかし、少女の母親は遥か離れた場所でおしゃべりに夢中で、娘の危険に気付かない。
画家は、少女に危険が迫り来るのを知りながら、手を差し伸べることが出来ず、ただじっと視ているしかない。
私たちはこの絵を観て、少女、母親、影、画家にそれぞれ自分を重ねて見ることが出来る。
それは、被害者、加害者、傍観者の立場。
この絵が言い知れぬ怖さを感じさせるのは、この絵が私たちの心の暗部を刺激するからだろう。
しかし、この絵には、トラウマだけでなく、イノセントな生命の輝きが内包されている。
20世紀に入り、画家は一連の神話的作品や「憎悪」に見られるように、心の奥底に潜めていた葛藤を次第に表面化させていく。
1914年に描かれた「室内着の自画像」では、画家としてこの葛藤と正面から対峙しようという決意が漲っている。
1914年から16年にかけて制作された〈これが戦争だ!〉シリーズは自分の葛藤との戦いの記録のようだ。
1916年に描かれた「短刀で刺された男」は、これまでの葛藤に苦しんだ自分の死を暗示しているように思われる。
そして、1917年に描かれた「グリュエリの森とムリソン峡谷」、「くっきりと浮かび上がるスーアンの教会」、「廃墟と化したユゥルの教会」では草が青々と茂っており、死の後の再生を感じさせる。
最晩年に描かれた「海からあがって」と「赤い服を着たルーマニア女性」。
そこにはモデルの女性の視線をたじろがずに正面から受け止めている画家がいる。
かつて「夕食、ランプの光」で少女の視線から逃げた画家の姿はもう無い。
《冷たい炎の画家》ではなくなったが、その方がずっと生き易くなったのではないだろうか、と思う。
先ず眼に飛び込んで来る「20歳の自画像」には、強がっているが自信の無い画家の繊細さ、心の弱さがにじみ出ている。
その弱さが12年後の1897年に描かれた「自画像」では見事に封じられ、挑むような不遜さが前面に現れている。
同じく1897年に描かれた「タデ・ナタンソン」の肖像画。
そして、1901年に描かれた「エミール・ゾラの装飾的肖像」。
これら正面を向いた肖像の表情には、共通して、淋しさと諦念が在る。
それは勿論、描かれた人物が持っているものだろうが、それに共感する画家自身の心が投影されているようにも感じられる。
「美しい夕暮れ」。
タロット・カードを連想させる印象的な版画。
距離ある彼岸に在るもの故、手を伸ばしても届かないところに在るもの故、心安らかに憧れ求め、その美しさを味わうことが出来る。
しかし、人物の後ろ姿には孤愁がにじむ。
〈アンティミテ〉シリーズの魅力的な木版画。
ソファに腰掛けた男女が優しく抱き合う素敵な絵に魅了される。
しかし、その絵に付けられたタイトルは「嘘」。
ちょっとしたことに傷付いてしまう生牡蠣のような感受性を持った画家は、心の鎧を脱いで親密さの中に身を投じることが出来ない。
「嘘」とか「お金」とか「もっともな理由」とか、否定的なタイトルで防衛的な枠組みを作ることによって、ようやく親密さに触れることが可能となる。
「夕食、ランプの光」。
この絵の焦点は正面に座る少女に当たっている。
円卓を囲む他の家族3名は皆、少女に注目している。
そして、当の少女は真直ぐな眼で正面に座った画家を見詰めている。
その眼差しには好意が感じられる。
しかし、画家は少女の好意を素直に受け止めることが出来ず、後ろに退く。
自分の背後に隠れて、少女の好意を秘かに感じている。
この自らが前面に出ることを良しとしない姿勢は「赤い服を着た後姿の女性のいる室内」にも色濃く表れている。
あくまでも引いた視点で、出来事の全貌を客観視したい、という指向が強く出ている。
「ボール」。
画面右手に転がっていく赤いボールには瑞々しい生命力が在る。
無心に赤いボールを追いかける少女。
少女の背後には黒い影が忍び寄って来る。
けれども少女はその影に気付かない。
少女に迫る危険。
しかし、少女の母親は遥か離れた場所でおしゃべりに夢中で、娘の危険に気付かない。
画家は、少女に危険が迫り来るのを知りながら、手を差し伸べることが出来ず、ただじっと視ているしかない。
私たちはこの絵を観て、少女、母親、影、画家にそれぞれ自分を重ねて見ることが出来る。
それは、被害者、加害者、傍観者の立場。
この絵が言い知れぬ怖さを感じさせるのは、この絵が私たちの心の暗部を刺激するからだろう。
しかし、この絵には、トラウマだけでなく、イノセントな生命の輝きが内包されている。
20世紀に入り、画家は一連の神話的作品や「憎悪」に見られるように、心の奥底に潜めていた葛藤を次第に表面化させていく。
1914年に描かれた「室内着の自画像」では、画家としてこの葛藤と正面から対峙しようという決意が漲っている。
1914年から16年にかけて制作された〈これが戦争だ!〉シリーズは自分の葛藤との戦いの記録のようだ。
1916年に描かれた「短刀で刺された男」は、これまでの葛藤に苦しんだ自分の死を暗示しているように思われる。
そして、1917年に描かれた「グリュエリの森とムリソン峡谷」、「くっきりと浮かび上がるスーアンの教会」、「廃墟と化したユゥルの教会」では草が青々と茂っており、死の後の再生を感じさせる。
最晩年に描かれた「海からあがって」と「赤い服を着たルーマニア女性」。
そこにはモデルの女性の視線をたじろがずに正面から受け止めている画家がいる。
かつて「夕食、ランプの光」で少女の視線から逃げた画家の姿はもう無い。
《冷たい炎の画家》ではなくなったが、その方がずっと生き易くなったのではないだろうか、と思う。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術