タオイズムの具現化 ― 『シンプルなかたち展』
もののかたちには、観ていてスッと心に入って来るものと、そうでないものとがある。
前者を私たちは美しいと感じる。
美しいと感じるのは、魂が取り込んでも大丈夫として出すGoサインである。
森美術館で開催中の『シンプルなかたち展 美はどこからくるのか』を観ていると、私たちが美しいと感じるもののかたちはシンプルなのだと実感する。
シンプルなかたちが私たちの魂のレセプターにフィットするのだ。
しかし、それは何故だろう。
展覧会場の始めの方に展示されているものたち。
例えば、《ル・コルビュジェ・コレクションからの岩、小石、骨》の丸みには、身体感覚になじむ懐かしさが感じられる。
展覧会なので作品に触ることは許されていないが、本当は観るよりも触る方が、そのものの良さがしっかりと確かめられると思われる感覚がある。
丸み、曲線は、有機物、生命体を連想させ、ぬくもりを感じさせる。
ブラッサイの《鳥2》、ジャン・アルプの《つぼみ》、アニッシュ・カプーアの《私が妊娠している時》など、現代の作品にも、そうした曲線の持つ触覚的ぬくもりがある。
触覚的ぬくもりが私たち自身の身体や生命への親近感を感じさせ、魂のレセプターをオンにするのだろう。
自然界の中に直線は無い、と言われることがあるが、本展覧会で展示されている《結晶モデル》を観ると、肉眼では見えにくい微細なレベルでは直線が存在していることが分かる。
直線モデルの多面体は墓石を連想させる。
それは生命を持たないもの、無機物のエッセンス。
2001年宇宙の旅のモノリスや、ジャン・マクラッケンの《翼》も結晶の系譜のように見える。
直線と並んで幾何学的なかたちを代表するものが円である。
自然界の中で円形をしたものは、太陽と月。
太陽系や銀河系始め、宇宙が円形をしていることが分かって来たが、いずれにしても、円形をしたものは遠くに在り、手が届かない。
直線や円をモチーフにした作品には触覚的ぬくもりは無いが、インドのタントラ・ドローイングなどには、私たちの本質を映し出す鏡のような、圧倒的な視覚的存在感がある。
それは私たちの生きている環境である自然のエッセンスが切り取られているからだろう。
ところが、自然を離れて、数式のような抽象概念を形象化した幾何学的なかたちになると、触覚的理解は完全に拒絶され、そのイメージは観念的で、捉えどころの無い自己完結したものとなる。
仙厓の《円相図》は一枚の絵ながら、月の満ち欠けの動きを暗示し、紙と墨の素材感と闊達な筆使いが有機的・触覚的なぬくもりを感じさせる。
つまり、ひとつの円が自然環境、宇宙であるとともに、生命を持った私たち自身を指し示している。
月の満ち欠けの暗示という点では、アンソニー・マッコールの《円錐を描く線 2.0》も同じ趣向を感じさせるが、幾何学的に抽象化されている故に、自然からも私たちの身体からも距離が出来てしまい、視覚的にきれいではあるが、体感覚的には響いて来ない。
長次郎の茶碗は、円という抽象概念を形象化し、かつ、触覚的アプローチを可能にしている。
視覚的にも美しいが、触ってもぬくもりを感じ、心地良い。
無機的なものと有機的なものとの統合、すなわち、宇宙そのもの。
宇宙を様々な角度から眺めつつ、掌で包み込む。
茶碗は究極のシンプルなかたち。
ヴォルフガング・ティルマンスの《フライシュヴィマー(自由な泳ぎ手)》は、暗室の中で流体と光が創り出した偶然を捉えている。
創り手は自然。
自然の創造力が発現するしくみを設定し、記録するのが人間の働き。
考えてみれば、人間の手で制作された優れた作品にも、本質的には、自然の持つ創造力を逆らわずに活かし、表現する、という要素がある。
そうして創造されたものがシンプルで美しい。
正にタオイズム。
それは、カウンセリングでも同じことが言える。
生きにくさを感じるクライエントは自然の流れを妨げる生き方をしている。
自然が流れを取り戻し、その流れに沿った生き方が出来るようになると、クライエントは息を吹き返し、創造的になって来る。
クライエントを「自由な泳ぎ手」にすることがカウンセラーの働き。
シンプルなカウンセリングが魂のレセプターにフィットし、クライエントの心にスッと入って来る。
箱庭療法から得られる視覚的イメージ。
時にはそこから感じる体感覚的刺激。
フォーカシングから得られるフェルト・センス。
時にはそこから立ち上がる視覚的イメージ。
視覚的・体感覚的な体験を通して、クライエントは自然の流れを、生命の流れを感じる。
シンプルなかたちが体感覚を伴ったイメージとして心の中に入り、定着する。
タオイズムを具現化するようなシンプルなカウンセリングを私は目指している。
前者を私たちは美しいと感じる。
美しいと感じるのは、魂が取り込んでも大丈夫として出すGoサインである。
森美術館で開催中の『シンプルなかたち展 美はどこからくるのか』を観ていると、私たちが美しいと感じるもののかたちはシンプルなのだと実感する。
シンプルなかたちが私たちの魂のレセプターにフィットするのだ。
しかし、それは何故だろう。
展覧会場の始めの方に展示されているものたち。
例えば、《ル・コルビュジェ・コレクションからの岩、小石、骨》の丸みには、身体感覚になじむ懐かしさが感じられる。
展覧会なので作品に触ることは許されていないが、本当は観るよりも触る方が、そのものの良さがしっかりと確かめられると思われる感覚がある。
丸み、曲線は、有機物、生命体を連想させ、ぬくもりを感じさせる。
ブラッサイの《鳥2》、ジャン・アルプの《つぼみ》、アニッシュ・カプーアの《私が妊娠している時》など、現代の作品にも、そうした曲線の持つ触覚的ぬくもりがある。
触覚的ぬくもりが私たち自身の身体や生命への親近感を感じさせ、魂のレセプターをオンにするのだろう。
自然界の中に直線は無い、と言われることがあるが、本展覧会で展示されている《結晶モデル》を観ると、肉眼では見えにくい微細なレベルでは直線が存在していることが分かる。
直線モデルの多面体は墓石を連想させる。
それは生命を持たないもの、無機物のエッセンス。
2001年宇宙の旅のモノリスや、ジャン・マクラッケンの《翼》も結晶の系譜のように見える。
直線と並んで幾何学的なかたちを代表するものが円である。
自然界の中で円形をしたものは、太陽と月。
太陽系や銀河系始め、宇宙が円形をしていることが分かって来たが、いずれにしても、円形をしたものは遠くに在り、手が届かない。
直線や円をモチーフにした作品には触覚的ぬくもりは無いが、インドのタントラ・ドローイングなどには、私たちの本質を映し出す鏡のような、圧倒的な視覚的存在感がある。
それは私たちの生きている環境である自然のエッセンスが切り取られているからだろう。
ところが、自然を離れて、数式のような抽象概念を形象化した幾何学的なかたちになると、触覚的理解は完全に拒絶され、そのイメージは観念的で、捉えどころの無い自己完結したものとなる。
仙厓の《円相図》は一枚の絵ながら、月の満ち欠けの動きを暗示し、紙と墨の素材感と闊達な筆使いが有機的・触覚的なぬくもりを感じさせる。
つまり、ひとつの円が自然環境、宇宙であるとともに、生命を持った私たち自身を指し示している。
月の満ち欠けの暗示という点では、アンソニー・マッコールの《円錐を描く線 2.0》も同じ趣向を感じさせるが、幾何学的に抽象化されている故に、自然からも私たちの身体からも距離が出来てしまい、視覚的にきれいではあるが、体感覚的には響いて来ない。
長次郎の茶碗は、円という抽象概念を形象化し、かつ、触覚的アプローチを可能にしている。
視覚的にも美しいが、触ってもぬくもりを感じ、心地良い。
無機的なものと有機的なものとの統合、すなわち、宇宙そのもの。
宇宙を様々な角度から眺めつつ、掌で包み込む。
茶碗は究極のシンプルなかたち。
ヴォルフガング・ティルマンスの《フライシュヴィマー(自由な泳ぎ手)》は、暗室の中で流体と光が創り出した偶然を捉えている。
創り手は自然。
自然の創造力が発現するしくみを設定し、記録するのが人間の働き。
考えてみれば、人間の手で制作された優れた作品にも、本質的には、自然の持つ創造力を逆らわずに活かし、表現する、という要素がある。
そうして創造されたものがシンプルで美しい。
正にタオイズム。
それは、カウンセリングでも同じことが言える。
生きにくさを感じるクライエントは自然の流れを妨げる生き方をしている。
自然が流れを取り戻し、その流れに沿った生き方が出来るようになると、クライエントは息を吹き返し、創造的になって来る。
クライエントを「自由な泳ぎ手」にすることがカウンセラーの働き。
シンプルなカウンセリングが魂のレセプターにフィットし、クライエントの心にスッと入って来る。
箱庭療法から得られる視覚的イメージ。
時にはそこから感じる体感覚的刺激。
フォーカシングから得られるフェルト・センス。
時にはそこから立ち上がる視覚的イメージ。
視覚的・体感覚的な体験を通して、クライエントは自然の流れを、生命の流れを感じる。
シンプルなかたちが体感覚を伴ったイメージとして心の中に入り、定着する。
タオイズムを具現化するようなシンプルなカウンセリングを私は目指している。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術