創造の密室 ― 『月映』
東京ステーションギャラリーで開催中の『月映』展を観た。
大正時代の始め、田中恭吉、藤森静雄、恩地孝四郎という三人の若者が集った版画同人誌『月映』。
木版画は肉筆で描いた原画を版木に彫り、転写する。
月は太陽の光を反射して照り映える。
その輝きは鏡に映したように内省的。
奇しくも、三人の名前の主要文字、「恭」「静」「孝」も内省的。
自ら熱い光を発しない月、そして、冷たい反射光を放つ月には死のイメージが付きまとう。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ『月光』の第一楽章も深い死のイメージに満ちている。
『月映』に触発され、『月に吠える』を編んだ萩原朔太郎は死を怖れた。
だから、犬は月に向かって吠える。
しかし、『月映』の作家たちにとって死は余りにも身近なものであり、怖れて距離を取ることが叶わなかった。
むしろ、死と融和することで心の安寧を図り、死(月)を超えた永遠の生(映)を生きることを希求したように思われる。
自らが結核に侵された田中にとって、それは身体感覚を伴った、差し迫った問題だった。
《去勢者と緋罌粟》で只一ヶ所、赤い色で刷られたケシの花は喀血を思わせる。
しかし、それはまた、去勢された男の身体から切り離された部分が新しい生命の炎を燃やしているようにも見える。
自らの肉体の滅びを予感している去勢者は赤く燃えるケシの花に希望を見出す。
《冬虫夏草》では、うずくまる人体の肩から大きな花が咲いている。
肉体は滅びても、生命は姿を変えて生き続ける。
《生ふるもの 去るもの》で、黒い背景に描かれた白い衣に包まれた女。
かき合せた胸元はふくらみ、赤児を抱いているように見える。
足先から咲き出る双葉。
女は自らの死を予感しながら、新しい生命の息吹を信じており、その表情は穏やかだ。
白衣に包まれた身体はまゆのように、さなぎのように見える。
死んだように見える生命のひとつのかたち。
それは欠けては満ち、欠けては満ち、を繰り返す月の生の在り方に似ている。
月もまゆも、死と生を内包している。
妹を亡くした藤森が描いた《二つの黙思》。
自画像を思わせる男がこちらを向いて座り、地面から生え出た双葉を見詰めている。
亡き妹のかたちを変えた生命であれかし、とのせつない願い。
《ただよふもの》や《すすりなくたましひ》で描かれた黒衣をまとったまゆのような人体。
田中のまゆは自らの内なる祈りであるのに対し、藤森は祈りの対象を外に置いている。
一人称の死と二人称の死。
《自然と人生》で藤森は、黒い山に穿たれたトンネルから走り出て来る夜汽車を描いた。
列車は永遠の生命の象徴。
山は個々の人生。
列車がいくつもの山をくぐり抜けて行くように、生命は個々の肉体を超えて生き続ける。
同様に、《夜》では累々と横たわる黒い屍の奥に、一人向こうに歩み続ける白い影(永遠の生)を描いた。
恩地が描いた《ただよへるもの》、《そらよりくだるかげ》。
他の二人と異なり、直線を好んで使った恩地。
ピラミッドのような三角がこの世の人生と死で、円い月が永遠の生だろうか。
三角の角は時折、円に食い込むが、それはひと時のことに過ぎない。
円はいつでもまた元に戻る。
円い月はまた三人の絆だろうか。
それは近しい者の死を経験することによって一層強くなる。
田中が身体的、藤森が情緒的であるのに対して、恩地はより哲学的だ。
『月映』を創刊する以前に作家たちが作っていた同人誌、『密室』。
回覧雑誌という濃密な共有手段。
回覧を重ねる毎に、メンバーは親密さを増し、価値観を共有して行く。
互いに影響を与え合い、作風が似て来る。
クローズドな関係の中で、手書きの紙媒体で交わされるコミュニケーションの質の高さ。
いまどきのデジタル空間に於けるやり取りでは速さと量は稼げるが、質的内容を深めることはむずかしい。
デジタル空間は明るく、透明だが、実体が無く、空疎だ。
一方、『密室』の世界は暗く、見通しが効かないが、エネルギーが詰まっていて、産み出す力に満ちている。
振り返って見れば、私も高校、大学時代、友人たちとの手紙のやり取りを通じて、濃密な時間を共有し合っていたことを想い出す。
そうした原体験が有るからこそ、『密室』の世界に尚一層の共感を覚えるのだろう。
現在、私が仕事にしているカウンセリングというのは、デジタル時代の風潮に背いて、『密室』の豊かな世界を創り出す試みである、と言えるかも知れない。
大正時代の始め、田中恭吉、藤森静雄、恩地孝四郎という三人の若者が集った版画同人誌『月映』。
木版画は肉筆で描いた原画を版木に彫り、転写する。
月は太陽の光を反射して照り映える。
その輝きは鏡に映したように内省的。
奇しくも、三人の名前の主要文字、「恭」「静」「孝」も内省的。
自ら熱い光を発しない月、そして、冷たい反射光を放つ月には死のイメージが付きまとう。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ『月光』の第一楽章も深い死のイメージに満ちている。
『月映』に触発され、『月に吠える』を編んだ萩原朔太郎は死を怖れた。
だから、犬は月に向かって吠える。
しかし、『月映』の作家たちにとって死は余りにも身近なものであり、怖れて距離を取ることが叶わなかった。
むしろ、死と融和することで心の安寧を図り、死(月)を超えた永遠の生(映)を生きることを希求したように思われる。
自らが結核に侵された田中にとって、それは身体感覚を伴った、差し迫った問題だった。
《去勢者と緋罌粟》で只一ヶ所、赤い色で刷られたケシの花は喀血を思わせる。
しかし、それはまた、去勢された男の身体から切り離された部分が新しい生命の炎を燃やしているようにも見える。
自らの肉体の滅びを予感している去勢者は赤く燃えるケシの花に希望を見出す。
《冬虫夏草》では、うずくまる人体の肩から大きな花が咲いている。
肉体は滅びても、生命は姿を変えて生き続ける。
《生ふるもの 去るもの》で、黒い背景に描かれた白い衣に包まれた女。
かき合せた胸元はふくらみ、赤児を抱いているように見える。
足先から咲き出る双葉。
女は自らの死を予感しながら、新しい生命の息吹を信じており、その表情は穏やかだ。
白衣に包まれた身体はまゆのように、さなぎのように見える。
死んだように見える生命のひとつのかたち。
それは欠けては満ち、欠けては満ち、を繰り返す月の生の在り方に似ている。
月もまゆも、死と生を内包している。
妹を亡くした藤森が描いた《二つの黙思》。
自画像を思わせる男がこちらを向いて座り、地面から生え出た双葉を見詰めている。
亡き妹のかたちを変えた生命であれかし、とのせつない願い。
《ただよふもの》や《すすりなくたましひ》で描かれた黒衣をまとったまゆのような人体。
田中のまゆは自らの内なる祈りであるのに対し、藤森は祈りの対象を外に置いている。
一人称の死と二人称の死。
《自然と人生》で藤森は、黒い山に穿たれたトンネルから走り出て来る夜汽車を描いた。
列車は永遠の生命の象徴。
山は個々の人生。
列車がいくつもの山をくぐり抜けて行くように、生命は個々の肉体を超えて生き続ける。
同様に、《夜》では累々と横たわる黒い屍の奥に、一人向こうに歩み続ける白い影(永遠の生)を描いた。
恩地が描いた《ただよへるもの》、《そらよりくだるかげ》。
他の二人と異なり、直線を好んで使った恩地。
ピラミッドのような三角がこの世の人生と死で、円い月が永遠の生だろうか。
三角の角は時折、円に食い込むが、それはひと時のことに過ぎない。
円はいつでもまた元に戻る。
円い月はまた三人の絆だろうか。
それは近しい者の死を経験することによって一層強くなる。
田中が身体的、藤森が情緒的であるのに対して、恩地はより哲学的だ。
『月映』を創刊する以前に作家たちが作っていた同人誌、『密室』。
回覧雑誌という濃密な共有手段。
回覧を重ねる毎に、メンバーは親密さを増し、価値観を共有して行く。
互いに影響を与え合い、作風が似て来る。
クローズドな関係の中で、手書きの紙媒体で交わされるコミュニケーションの質の高さ。
いまどきのデジタル空間に於けるやり取りでは速さと量は稼げるが、質的内容を深めることはむずかしい。
デジタル空間は明るく、透明だが、実体が無く、空疎だ。
一方、『密室』の世界は暗く、見通しが効かないが、エネルギーが詰まっていて、産み出す力に満ちている。
振り返って見れば、私も高校、大学時代、友人たちとの手紙のやり取りを通じて、濃密な時間を共有し合っていたことを想い出す。
そうした原体験が有るからこそ、『密室』の世界に尚一層の共感を覚えるのだろう。
現在、私が仕事にしているカウンセリングというのは、デジタル時代の風潮に背いて、『密室』の豊かな世界を創り出す試みである、と言えるかも知れない。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術