アート・セラピーのミューズ ― 『ニキ・ド・サンファル』
国立新美術館で開催中の『ニキ・ド・サンファル展』を観た。
ニキの作品は心を掴む。
或る作品は心に深く突き刺さり、或る作品は心をわくわくさせ、感じるものは様々だが、いずれにせよ、観る者の共感を呼び起こす強い力が有る。
そして、心を揺り動かされた後で、その作品に潜むメッセージに思いを寄せたくなる深さが有る。
現代美術では、一覧して素直に感情を呼び起こされる作品が少ない。
混乱させ、問題提起し、考えさせるのが現代美術であるかのような風潮が有る。
しかし、そのような作品にばかり触れていると、感動が無く、わざわざ美術館に足を運んだ意味が無いように感じることも有る。
左脳ばかり使わせる作品の印象は後まで残らない。
美術作品からは美術作品ならではの感動が欲しい。
かつて、美術はその名の通り、美を創り出す術であったが、現代美術は美を重要視しなくなってしまった。
美というのは、魂が受け入れても大丈夫な好ましいものと感じたときに発現する感覚である。
美しいものは魂の栄養になり、私たちの生きる力を強くする。
だから私たちは美しいものに触れたいという本能的な欲求を持っている。
美術は私たちの魂に美というパワーを届ける存在価値を持っているが、現代美術がそれを否定してしまったのは残念でならない。
美を創り出すには、作家の中に強いエネルギーが必要だし、それを形にする技術が要る。
作家の才能と生き方が作品となる。
そうした才能と生き方を兼ね備えた現代作家は少ない。
ニキ・ド・サンファルは稀有の例である。
ニキは元々絵を描くことが好きだったようだが、22才の頃、精神疾患で入院したとき、セラピーで絵を描いたり、コラージュを作ったりしたことをきっかけに、本格的に制作活動に入って行く。
彼女を有名にした射撃絵画。
『マリブの射撃』のフィルムを観ると、射撃開始前の白壁には天使や髑髏、食卓や花、飛行機などが埋め込まれ、取り繕われた表面的な人生の象徴のようにも、大きな墓碑のようにも見える。
そのきれいにすました白壁が撃たれ、絵具で汚されて行くプロセスに、男性である私も快哉を感じるのは、白壁を当時のニキを縛っていた女性性だけでなく、不自由な偽りの人生という普遍性を持った象徴として感じるからなのだろう。
射撃されて破れた袋から飛び散り、流れ出る絵の具によって、白壁に埋め込まれていたイメージが顕わになって来る。
それはまるで墓暴きのようだ。
女性性の解体という作業は、『赤い魔女』や『白の出産、あるいはゲア』といった女性像で続けられる。
そのイメージは墓から暴きだされた死体のようでもある。
身体を覆う皮膚は無く、体内には、マリア像や髑髏、幼児や鳥、動物、人の頭部、甲殻類、爬虫類等の夥しいミニチュアが詰め込まれている。
観ていると、身体を刺し貫かれるような悲痛さを感じるが、同時に、どこか静謐な感じもある。
される性、させられる性としての女性の現実を改めて感じさせられる痛み。
けれども、すべてが外在化され、正体が明らかにされたことによる落ち着き。
友人クラリス・リヴァーズの妊婦姿に感銘を受けたニキが制作した『ベネディクト』、『リリ、あるいはトニー』、『グウィン』。
体内にこもっていた女性に対する負のイメージを排出したニキは、友人の妊婦姿を見て、産む性としての女性の素晴らしさを素直に実感出来たのだろう。
新たな女性像には皮膚が再生された。
あたかも再生手術で貼り合わせられたかのように、デコボコのパッチワークのような肌をしているが、彼女たちの姿には自律的な動きがある。
再生途上を思わせた肌は、《ナナ》シリーズではすっかり厚く、艶やかになり、安定感を増して来る。
好んで制作した黒い肌のナナは、黒人解放運動への共感によるものだが、黒という色によって、ニキは自らの内なる力を実感し、強化したのではないだろうか。
ストックホルム近代美術館で実施された『ホーン』プロジェクトでは、体内に多くの人や物を内包出来るほどに、ニキの皮膚は強靭になっている。
数多く制作された《ナナ》シリーズの女性像はシンプルで鮮やかな色彩が踊るようで、観ていると、まるで花園に迷い込んだようにうっとりする。
生への肯定感に満ちていて、この世に生を受けて良かったと思わせる。
ニキ自身は「コインの裏表だ」と言って、《ナナ》シリーズ誕生は表現が変わっただけで、自分の中の問題意識は一貫している、と認識しているようだが、正に表現が裏表に変化したことで、問題意識がコントロール可能なものになり、ずっと生き易くなったはずだ。
女という問題と取り組み、自立を果たしたニキは、改めて男性性を肯定的に取り込む。
ティンゲリーとの対等なパートナーシップから得られた自由、信頼、幸福を、『恋する鳥』や『愛万歳』の抱擁や、『水浴びするカップル』のダンス等で余すところなく表現する。
自立し、強くなったからこそ、男性性を素直に受け入れ、肯定的なリソースに出来る。
異なるものを受け入れ、自らのリソースにする包摂力こそが愛。
愛はこの世を生きるための原動力。
地上の愛を実現した生は精神世界へと向かう。
ブッダ、ガネーシャ、ギルガメシュなど異教の神々を受け入れ、多様な価値観を包摂し、ニキの愛は深化する。
この時期の作品には深い青が多用され、美しく、精神的な深さが感じられる。
タロット・ガーデンの諸作品は物質世界の歓びと精神世界の豊かさが統合されていて、美しく、さながらこの世から精神世界への結節点を想わせる。
完成していたら、マヤ文明のピラミッドのような存在になっていたかも知れない。
アート・セラピーに端を発しながら、セラピーそのものの人生を徹底的に生き、表現し、美を創り出すに到った。
ニキ・ド・サンファルはアート・セラピーのミューズである。
ニキの作品は心を掴む。
或る作品は心に深く突き刺さり、或る作品は心をわくわくさせ、感じるものは様々だが、いずれにせよ、観る者の共感を呼び起こす強い力が有る。
そして、心を揺り動かされた後で、その作品に潜むメッセージに思いを寄せたくなる深さが有る。
現代美術では、一覧して素直に感情を呼び起こされる作品が少ない。
混乱させ、問題提起し、考えさせるのが現代美術であるかのような風潮が有る。
しかし、そのような作品にばかり触れていると、感動が無く、わざわざ美術館に足を運んだ意味が無いように感じることも有る。
左脳ばかり使わせる作品の印象は後まで残らない。
美術作品からは美術作品ならではの感動が欲しい。
かつて、美術はその名の通り、美を創り出す術であったが、現代美術は美を重要視しなくなってしまった。
美というのは、魂が受け入れても大丈夫な好ましいものと感じたときに発現する感覚である。
美しいものは魂の栄養になり、私たちの生きる力を強くする。
だから私たちは美しいものに触れたいという本能的な欲求を持っている。
美術は私たちの魂に美というパワーを届ける存在価値を持っているが、現代美術がそれを否定してしまったのは残念でならない。
美を創り出すには、作家の中に強いエネルギーが必要だし、それを形にする技術が要る。
作家の才能と生き方が作品となる。
そうした才能と生き方を兼ね備えた現代作家は少ない。
ニキ・ド・サンファルは稀有の例である。
ニキは元々絵を描くことが好きだったようだが、22才の頃、精神疾患で入院したとき、セラピーで絵を描いたり、コラージュを作ったりしたことをきっかけに、本格的に制作活動に入って行く。
彼女を有名にした射撃絵画。
『マリブの射撃』のフィルムを観ると、射撃開始前の白壁には天使や髑髏、食卓や花、飛行機などが埋め込まれ、取り繕われた表面的な人生の象徴のようにも、大きな墓碑のようにも見える。
そのきれいにすました白壁が撃たれ、絵具で汚されて行くプロセスに、男性である私も快哉を感じるのは、白壁を当時のニキを縛っていた女性性だけでなく、不自由な偽りの人生という普遍性を持った象徴として感じるからなのだろう。
射撃されて破れた袋から飛び散り、流れ出る絵の具によって、白壁に埋め込まれていたイメージが顕わになって来る。
それはまるで墓暴きのようだ。
女性性の解体という作業は、『赤い魔女』や『白の出産、あるいはゲア』といった女性像で続けられる。
そのイメージは墓から暴きだされた死体のようでもある。
身体を覆う皮膚は無く、体内には、マリア像や髑髏、幼児や鳥、動物、人の頭部、甲殻類、爬虫類等の夥しいミニチュアが詰め込まれている。
観ていると、身体を刺し貫かれるような悲痛さを感じるが、同時に、どこか静謐な感じもある。
される性、させられる性としての女性の現実を改めて感じさせられる痛み。
けれども、すべてが外在化され、正体が明らかにされたことによる落ち着き。
友人クラリス・リヴァーズの妊婦姿に感銘を受けたニキが制作した『ベネディクト』、『リリ、あるいはトニー』、『グウィン』。
体内にこもっていた女性に対する負のイメージを排出したニキは、友人の妊婦姿を見て、産む性としての女性の素晴らしさを素直に実感出来たのだろう。
新たな女性像には皮膚が再生された。
あたかも再生手術で貼り合わせられたかのように、デコボコのパッチワークのような肌をしているが、彼女たちの姿には自律的な動きがある。
再生途上を思わせた肌は、《ナナ》シリーズではすっかり厚く、艶やかになり、安定感を増して来る。
好んで制作した黒い肌のナナは、黒人解放運動への共感によるものだが、黒という色によって、ニキは自らの内なる力を実感し、強化したのではないだろうか。
ストックホルム近代美術館で実施された『ホーン』プロジェクトでは、体内に多くの人や物を内包出来るほどに、ニキの皮膚は強靭になっている。
数多く制作された《ナナ》シリーズの女性像はシンプルで鮮やかな色彩が踊るようで、観ていると、まるで花園に迷い込んだようにうっとりする。
生への肯定感に満ちていて、この世に生を受けて良かったと思わせる。
ニキ自身は「コインの裏表だ」と言って、《ナナ》シリーズ誕生は表現が変わっただけで、自分の中の問題意識は一貫している、と認識しているようだが、正に表現が裏表に変化したことで、問題意識がコントロール可能なものになり、ずっと生き易くなったはずだ。
女という問題と取り組み、自立を果たしたニキは、改めて男性性を肯定的に取り込む。
ティンゲリーとの対等なパートナーシップから得られた自由、信頼、幸福を、『恋する鳥』や『愛万歳』の抱擁や、『水浴びするカップル』のダンス等で余すところなく表現する。
自立し、強くなったからこそ、男性性を素直に受け入れ、肯定的なリソースに出来る。
異なるものを受け入れ、自らのリソースにする包摂力こそが愛。
愛はこの世を生きるための原動力。
地上の愛を実現した生は精神世界へと向かう。
ブッダ、ガネーシャ、ギルガメシュなど異教の神々を受け入れ、多様な価値観を包摂し、ニキの愛は深化する。
この時期の作品には深い青が多用され、美しく、精神的な深さが感じられる。
タロット・ガーデンの諸作品は物質世界の歓びと精神世界の豊かさが統合されていて、美しく、さながらこの世から精神世界への結節点を想わせる。
完成していたら、マヤ文明のピラミッドのような存在になっていたかも知れない。
アート・セラピーに端を発しながら、セラピーそのものの人生を徹底的に生き、表現し、美を創り出すに到った。
ニキ・ド・サンファルはアート・セラピーのミューズである。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術