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観る者の心を映す鏡 ― 『アルバレス・ブラボ写真展』

世田谷美術館で開催中の『アルバレス・ブラボ写真展』を観た。

正直言って、プリントされた写真が展示されているのを観ている時には、期待していたような感動を覚えなかった。
何故なのだろう。
多分、会場の大きさに比べて写真プリントのサイズが小さく、整然と並んでいたからではないか、と思う。
図録の見本を手に取ってみると、不思議なことにその方がずっと良く見える。

ブラボの写真は展覧会場の中で主張して来る感じではない。
講演会の講師ではなく、個室で語り合う対談相手のような写真だ。
写真の性質が親密なものなので、本の中に閉じ込めた方がその魅力を発揮するのではないだろうか。

「ストライキ中の労働者、殺される 1934」という写真に眼が止まる。
頭から血を流して仰向けに死んでいる男の写真だ。
しかし、不思議と残酷な感じがしない。
静かに落ち着いて観ていられる。
この感覚は、エドゥアール・マネが描いた「死せる闘牛士」を観た時に感じたものと同じだ。
マネは生者も死者も等価なものとして見て描いたが、ブラボもまた、生者と死者の区別を付けずに撮っている。
そうでなければ、こんなに静謐な画面にはならない。
ブラボもマネと同様、生と死を超えた存在を表現するリアリストなのだ。

「夢見る男」や「三度目の躓き」では、横たわっている人が眠っていても死んでいても不思議ではない。
ミイラを撮影した「死後の肖像」は、眼が開き、前歯が覗いて、まるで生きているようだ。
逆に、明らかに生きている女性を撮影した「眠れる名声」には、奇妙に「ストライキ中の労働者、殺される 1934」と通じる感覚が有る。
眠りと死がひとつながりの等価なものとして捉えられている。
これらの写真は全てマネの「死せる闘牛士」へのオマージュなのだ。
であれば、「名声」という題にも合点が行く。

ブラボの写真に写っているものの様々な素材感。
石や岩の硬く乾いた感じ、人間の肉体の柔らかくみずみずしい感じ、そして、植物の持つ中間的な感じ。
見た目の素材感は違っているが、本質的には全て同じなのだ、同じ原子から成り立つものなのだ、と思わせるものが有る。
それは、被写体への思い入れの程度が同じだからかも知れない。
だから彼は生者も死者も同じ眼で観ることが出来るのだろう。
そこには、対象にべったりせず、距離を取って温かく見守る父親のような慈愛を感じる。

元々彼はアマチュア写真家としてスタートした人なので、どうすれば自分の写真に商品価値が付くか、などということを考えずに純粋に写真に取り組めたのではないかと思う。
街の風景、人々の生活、自然、人体、植物、鉱物、遺跡、民俗的なもの等々、あらゆるものに関心を寄せ、多様な被写体への受容性を育んだ。

「どの芸術にも共通する詩情は、シンプルな手だてをとおして得られる、複雑な現象の表現です。」
「私にとって写真とは見る技法です。ほぼそれに尽きるといえます。見えるものを撮り、絵画と違って、ほとんど改変もしない。こうした姿勢でいると、写真家は予期せぬものを、実に上手に活かせるのです。」

ブラボは写真というシンプルな見る技法で切り取ることによって、あらゆる被写体の持つ表現可能性をバイアス無しで提示している。
事象そのものはニュートラルで、見方によって美しくも醜くもなる要素を持っている。
写真の強みは、価値判断を観る人に委ねて、自由に表現出来る点に有る。
ブラボの写真は、観る人の心を映し出す鏡、とも言えるのではないだろうか。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

迷林亭主

Author:迷林亭主
迷林亭主ことカウンセリングルーム・メイウッド室長 服部治夫。
三鷹市の住宅地に佇む隠れ家的なヒーリグ・スペース。
古民家を改装したくつろぎの空間で、アートセラピーや催眠療法などを活用し、カウンセリングやヒーリング、創造性開発の援助に取り組んでいます。

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