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時間とドラマのカプセル ― 『エリザベス・ペイトン:Still life 静/生』

原美術館で開催中の『エリザベス・ペイトン:Still life 静/生』を観た。

会場に入ると、展示されている絵が意外に小さく感じられる。
しかし、小さいながらも存在感が有る。
それは、描かれた線の迷いの無さ、
そして、色彩の鮮やかさに依るものだろう。

例えば、『眠るカート』のシャツの紫色やノートのオレンジ色。
『プリンス イーグル(フォンテーヌブロー)』の湖水の碧色、屋根の瑠璃色、そして着ているコートやズボンの濃紺色。

肖像画の人物には笑いが無い。
彼(彼女)は自分の感情を表現しようとしたり、こちらとコミュニケーションを取ろうとしたりしない。
画家がモデルに敢えてそのようなことをさせず、素のままで存在させ、その姿を写し取っている。

その表情は中性的で硬く、内面に踏み込んで来ることを拒む手強さを持っている。
しかし、その閉ざした表情を裏切って、鮮やかな色彩は秘められた感情の豊かさを暗示している。
パッッション。
どの肖像画にも共通するそうした雰囲気は、おそらく画家自身の心を投影しているのだろう。

静かで、内面を隠した、謎めいた肖像画。
それは静物画の特徴に似ている。
本展覧会のタイトルに含まれている『Still life』はそれを意識したものなのだろう。

2階に上がる。
階段踊り場のバルコニーに展示されている『パティ』。
ポストカードの中の肖像は淡く霞んでいる。
それに対して手前のガラスのコップに挿した花の赤は濃く、生き生きしている。
1階の「静」に対して2階は「生」なのか、と予感させる。

そして、2階の会場に展示されている最初の作品『搭乗券(花)』。
華やかなピンクのカーネーションは生の世界への搭乗券。

2階には、『クンドリ(ヴァルトラウト マイアー)』、『ウェルテルの死』、『パルジファル(ヨナス カウフマンとカタリーナ ダライマン)』のような、劇やオペラに題材をとった作品や、『二人の女性(クールベにならって)』、『エジプトのフロベール(ドラクロワにならって)』のような、19世紀絵画へのオマージュとして描かれた作品が展示されている。

これらの絵には動きが有る。
ロマン派的なドラマに満ちている。
そして、動きやドラマが有る分、エネルギーが放散され、画面の緊張感は逆に緩和されて来る。
これらの絵にはカタルシスが在る。

2階には、ペイトンの自画像が2枚展示されている。
1999年に描かれた『自画像』は見透かすような冷ややかな眼をしている。
対象と距離を取って外から視ている感じだ。
2009年に描かれた『自画像(ベルリン)』の眼は焦点が合っていない。
泣いているのだろうか。
両眼から放射状の線が描かれ、涙が飛び散っているみたいに見える。
内に在るものが溢れ出し、正に己の生を生きている。

エリザベス・ペイトンは語っている。
「絵画は、一瞬一瞬の時間の蓄積である。あるいは時間をかけて生じるものである。絵画とは、それ自身が必要とするものをすくい上げていく作業だ。絵画の中に起きていることをただじっと観察する。絵画は時間とともにある、それゆえ大きな影響力をもつものとなる。」

階段を降りて1階のギャラリーを再訪する。
先刻観た肖像画が変貌している。
肖像から構えが無くなり、人物が素直に今という時を生きている。
最初に対峙した時に感じた手強い緊張感は解け、絵そのものの情感がすっと心に沁み込んで来る。
二巡三巡するほど、その感覚が増して来る。

ペイトンの言う通り、絵画は時間と共に在り、大きな影響力を持っている。
生硬な絵画がドラマの感動を潜り抜け、生き生きしたものに変容する。
ペイトンが体験したプロセスを、展覧会場を巡ることで追体験しているような感覚。

肖像はドラマを容れたカプセル。
虚構世界を映し鏡として、今私たちの生きている世界が内包するドラマ性に気づかせてくれる。
絵の中には時間が流れている。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

迷林亭主

Author:迷林亭主
迷林亭主ことカウンセリングルーム・メイウッド室長 服部治夫。
三鷹市の住宅地に佇む隠れ家的なヒーリグ・スペース。
古民家を改装したくつろぎの空間で、アートセラピーや催眠療法などを活用し、カウンセリングやヒーリング、創造性開発の援助に取り組んでいます。

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