生命の実相の可視化 ― 『草間彌生 わが永遠の魂』
国立新美術館で開催中の『草間彌生 わが永遠の魂』を観た。
ホールに入場すると、屋内であるにもかかわらず、明るい陽光の下に放り出されたように感じる。
太陽の光を受けているように、身体内部の生命の輝度が上がる。
『わが永遠の魂』シリーズのひとつひとつの絵には驚くほどの多様性が有る。
構図の多様性、形象の多様性、色彩の多様性。
無彩色や寒色系の絵も有るが、全体として赤やオレンジ等の色調の絵が多い。
それが暖かさを感じさせ、太陽を思わせるのだ。
ホールの中央部に置かれた立体作品『真夜中に咲く花』や『明日咲く花』がホール内のエネルギーをキャッチし、分配するアンテナの役割を果している。
このホールは正にパワースポットだ。
写真を撮りつつホールを一巡し、しばらく余韻に浸る。
ホールを囲む回廊の最初の部屋に移動する。
最初期の松本時代の草間の作品が展示されている。
1939年の(無題)には、水玉や『真夜中に咲く花』の原型となるような花のイメージが描き込められている。
これが少女時代に彼女を苦しめた幻覚のイメージなのだろうか。
1940年代から50年代にかけて描かれた絵は総じて画面サイズが小さく、色調が暗い。
才能有る画家であることは確かだが、未だ現在の草間に通じる独自性は無い。
内面の不安や狂気が描かれているが、内に閉じ込められている。
日本国内の風土の枠に縛られているようだ。
渡米して、1960年代にニューヨークで描かれた作品は、スタジオの環境も有るのだろうが、急激に画面サイズが巨大化する。
細かいドットやネットの反復で画面が満たされ、色彩も白一色や赤一色のように、明るくシンプルになる。
ドットやネットは細胞を連想させる。
草間は細胞というエレメントを増殖させることによって、新たなものを産み出すことが出来ることに気付いたのだ。
少女時代から自分を苦しめていた水玉のイメージが、生命を象徴するイメージにパラダイムシフトする。
ドットやネットの代わりに紙幣や、顔写真やAirmailのラベルを細胞として増殖的に用いたコラージュでその可能性を確認する。
さらに、細胞増殖による創造の可能性を立体作品で試すべく、突起物の反復・組合せによるソフトスカルプチャーを制作する。
突起物は男性器を連想させるが、それは生命と変化の可能性を象徴する、細胞の立体的イメージとしてふさわしいものだったのだろう。
草間は細胞という生命的エレメントで世界を再構成する表現手段を獲得したのだ。
彼女はその可能性を試すべく、自らの身体を使った野外でのパーフォーマンスや写真・映像作品へと、表現の多様性を拡げて行く。
心身の不調を感じた草間は1972年に一時帰国し、翌73年から日本に定住するようになる。
拡張した後には収縮することによってバランスを取り直す必要が有ったのだろう。
米国滞在中に獲得した表現手段を手に、草間は深く内面の世界に降りて行き、魂の問題と取り組む。
そして、水玉やネットという細胞的エレメントを駆使して暗く内省的なテーマに挑み、多様な表現法を産み出し、他の作家の追随を許さない独自のスタイルを築き上げて行く。
1980年代に入ると再び作品が巨大化して来る。
色使いは明るく、深い。
水玉と突起物をモチーフに、鮮やかで深味の有る色彩感覚で構成した立体作品『最後の晩餐』。
同じく突起物のモチーフを使い、白と赤のシンプルな色の組合せで反復する『太陽の雄しべ』。
精子をモチーフにした『魂を燃やす閃光 A.B.Q』など、生命への力強い讃歌。
草間を代表するデザインである『黄樹』は突起物が成長し、変容したものと水玉との組合せのように見える。
この『黄樹』が生命と魂の無限に拡がる営みをその内側から捉えた姿とすれば、生命と魂を象徴する形象を外側から捉えようとする試みが『かぼちゃ』と言えるだとう。
再び中央のホールに入る。
改めて色彩の氾濫にまぶしさと心身の高揚を感じる。
草間は闇の中に閉じ込められていたエネルギーの出口を開き、解き放ったのだ。
エネルギーが草間彌生というチャンネルを通して奔流のように私たちの世界に流れ込んで来ているのだ。
宇宙のエネルギー、生命のエネルギーには光と共に闇も内在する。
『わが永遠の魂』シリーズの絵に感じる不穏さはその現われだろう。
しかし、それがエネルギーの実相なのだろう。
生命の秘密を可視化して見せてくれた草間彌生という不世出の巫女と同時代に生きている興奮を禁じ得なかった。
ホールに入場すると、屋内であるにもかかわらず、明るい陽光の下に放り出されたように感じる。
太陽の光を受けているように、身体内部の生命の輝度が上がる。
『わが永遠の魂』シリーズのひとつひとつの絵には驚くほどの多様性が有る。
構図の多様性、形象の多様性、色彩の多様性。
無彩色や寒色系の絵も有るが、全体として赤やオレンジ等の色調の絵が多い。
それが暖かさを感じさせ、太陽を思わせるのだ。
ホールの中央部に置かれた立体作品『真夜中に咲く花』や『明日咲く花』がホール内のエネルギーをキャッチし、分配するアンテナの役割を果している。
このホールは正にパワースポットだ。
写真を撮りつつホールを一巡し、しばらく余韻に浸る。
ホールを囲む回廊の最初の部屋に移動する。
最初期の松本時代の草間の作品が展示されている。
1939年の(無題)には、水玉や『真夜中に咲く花』の原型となるような花のイメージが描き込められている。
これが少女時代に彼女を苦しめた幻覚のイメージなのだろうか。
1940年代から50年代にかけて描かれた絵は総じて画面サイズが小さく、色調が暗い。
才能有る画家であることは確かだが、未だ現在の草間に通じる独自性は無い。
内面の不安や狂気が描かれているが、内に閉じ込められている。
日本国内の風土の枠に縛られているようだ。
渡米して、1960年代にニューヨークで描かれた作品は、スタジオの環境も有るのだろうが、急激に画面サイズが巨大化する。
細かいドットやネットの反復で画面が満たされ、色彩も白一色や赤一色のように、明るくシンプルになる。
ドットやネットは細胞を連想させる。
草間は細胞というエレメントを増殖させることによって、新たなものを産み出すことが出来ることに気付いたのだ。
少女時代から自分を苦しめていた水玉のイメージが、生命を象徴するイメージにパラダイムシフトする。
ドットやネットの代わりに紙幣や、顔写真やAirmailのラベルを細胞として増殖的に用いたコラージュでその可能性を確認する。
さらに、細胞増殖による創造の可能性を立体作品で試すべく、突起物の反復・組合せによるソフトスカルプチャーを制作する。
突起物は男性器を連想させるが、それは生命と変化の可能性を象徴する、細胞の立体的イメージとしてふさわしいものだったのだろう。
草間は細胞という生命的エレメントで世界を再構成する表現手段を獲得したのだ。
彼女はその可能性を試すべく、自らの身体を使った野外でのパーフォーマンスや写真・映像作品へと、表現の多様性を拡げて行く。
心身の不調を感じた草間は1972年に一時帰国し、翌73年から日本に定住するようになる。
拡張した後には収縮することによってバランスを取り直す必要が有ったのだろう。
米国滞在中に獲得した表現手段を手に、草間は深く内面の世界に降りて行き、魂の問題と取り組む。
そして、水玉やネットという細胞的エレメントを駆使して暗く内省的なテーマに挑み、多様な表現法を産み出し、他の作家の追随を許さない独自のスタイルを築き上げて行く。
1980年代に入ると再び作品が巨大化して来る。
色使いは明るく、深い。
水玉と突起物をモチーフに、鮮やかで深味の有る色彩感覚で構成した立体作品『最後の晩餐』。
同じく突起物のモチーフを使い、白と赤のシンプルな色の組合せで反復する『太陽の雄しべ』。
精子をモチーフにした『魂を燃やす閃光 A.B.Q』など、生命への力強い讃歌。
草間を代表するデザインである『黄樹』は突起物が成長し、変容したものと水玉との組合せのように見える。
この『黄樹』が生命と魂の無限に拡がる営みをその内側から捉えた姿とすれば、生命と魂を象徴する形象を外側から捉えようとする試みが『かぼちゃ』と言えるだとう。
再び中央のホールに入る。
改めて色彩の氾濫にまぶしさと心身の高揚を感じる。
草間は闇の中に閉じ込められていたエネルギーの出口を開き、解き放ったのだ。
エネルギーが草間彌生というチャンネルを通して奔流のように私たちの世界に流れ込んで来ているのだ。
宇宙のエネルギー、生命のエネルギーには光と共に闇も内在する。
『わが永遠の魂』シリーズの絵に感じる不穏さはその現われだろう。
しかし、それがエネルギーの実相なのだろう。
生命の秘密を可視化して見せてくれた草間彌生という不世出の巫女と同時代に生きている興奮を禁じ得なかった。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術