桜が満開の季節にブログを開始することとなった。
その昔、兼好法師は「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」と言った。全てのことは始めと終わりが特に面白い、と言い、移り行くプロセスそのものを楽しむ遊び心に私は共感する。
かつて、埼玉県の懐深く、栃本の民宿に泊まった際、北陸からドライヴして来た夫婦と一緒になった。彼らは日本の百名山を巡っており、翌日は両神山に登るのにいかにして効率が良い地点まで車でアクセスするか、と言うことを熱心に語っていた。ピークハンターである。私は彼らの話に相槌を打ちながら、もったいない登山の仕方だなあ、と思った。
山頂は登山の中のひとつの過程に過ぎない。多くの人にとって最も印象に残るクライマックスには違いないが、それでも長い行程の中のひとつの瞬間に過ぎないのだ。山は出来るだけ麓から歩いて登るのが良い。途中で巡り会う風物に思わぬ感動を覚えることもあるし、苦労して登ってこそ、登頂した時の素晴らしさもひとしおとなる。そして、山頂の喜びを反芻しながらの下山がまた味わい深い。
山頂だけを効率よく狙うのは、成功か失敗かの区別しか無いが、ひとつの山を麓から全て登る場合には、たとえ悪天候で登頂が叶わなかったとしても、それまでのプロセスそのものがユニークな記憶として心の財産となる。
平安朝の「虫めづる姫君」は毛虫を可愛がった。一般の人は蝶だけを愛でるのに対し、彼女は蝶になる可能性を秘めた毛虫を愛でた。毛虫も蝶も本質において変わりが無いことを彼女は分かっていた。
花も蝶も盛りの時期は余りにも短く、はかない。日本人はそこに「もののあはれ」を感じた。「もののあはれ」と言う言葉は、一瞬の輝きの陰に隠された膨大な地味なプロセスを直観的に洞察し、それ故にこそ、今ここに立ち現われた奇跡的な美に敬意を表する感情を表した言葉なのだ。
変容は一瞬にして起こるが、実際の変化は長い時間を掛けて進行している。それは地震に似ている。表面では見えない深いところで変化は静かに進行している。変化のプロセスは静かだが強く、確かだ。
花は盛りの季節、迷林亭主の独想である。
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テーマ : セラピー&ヒーリング
ジャンル : 心と身体