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「今、ここ」を描く画家エドゥアール・マネ

三菱一号館美術館で開催されている展覧会『マネとモダン・パリ』を観た。

マネは好きな画家であるが、何故好きなのか、その理由を説明することが出来なかった。
しかし、今日、マネの作品をまとめて観て、その理由が掴めた気がする。

画家はそれぞれ独自の表現様式を持っている。
画家だけではなく、一流の芸術家、表現者は独自の様式を持っている。
しかし、その様式をどのように獲得したか、また、自身の様式に対してどのようにこだわりを持っているか、という点に関しては個人差があると思う。

アカデミックな環境で技術を習得する場合には、伝統的な技法を学び、そこから「守」「破」「離」の順で自分の様式を確立して行く。
力のある画家は「離」まで行くが、伝統的な環境に浸った場合、なかなかそこから大きくはずれた「離」を確立するのは難しい。
おそらく、それは様式感へのこだわりがあり、そのため、そこから大きく離脱することを妨げているのだろう。
つまり、「型」から入って学んだ場合、その「型」から完全に自由になることが不可能なのだ。
その点、マネは不思議なほど、「型」の呪縛から自由だ。
それは、マネが学んだのは「型」ではなく、もっと本質的なものだったからだろう。

マネの描いた絵を観ていると、ひとつひとつの絵に強烈な一回性を感じる。
自分が過去に描いた絵で築いたやり方をご破算にして、対象を前にして自分が「今、ここ」で感じるものをそのまま表現しようとする強い意志を感じる。
「今、ここ」の瞬間を捉える故に、その絵には永遠が在る。

マネは自分の内なるオリジナリティーを大切にする画家だ。
従って、マネの絵が持つ様式は、マネがこだわって創り上げようとしたものではなく、オリジナリティーの帰趨として必然的に生まれて来たものなのだ。

近現代の画家として、上記の発想は当たり前かも知れない。
しかし、それが当たり前でない時代に、サロンという逆境の中で確信犯的に作品を発表し続けたマネには卓越したオリジナリティーが有った、ということに驚嘆する。
逆に、上記の発想が当たり前になってしまうと、自分の内なるものを大切にすること自体が新たなる「型」になって陳腐化してしまいかねない、とも自警する。
自分が発見したもの、自分が実感を伴って気付いたことにこそ本当の価値があり、オリジナリティーがあるのだ。

もうひとつ、マネの絵に感じるのは画家の人間としてのキャパシティーの大きさである。
活き活きとした生のシーンを描いても、血腥い死のシーンを描いても、動じず、しっかりと対象を受け止め、その存在を表現している。
マネにとっては生も死も存在の状態として等価のようだ。
それが、彼の静物画に生と死の両方を同時に感じさせる秘密なのだろう。

生死を超越した存在そのものを描くリアリズム。
表層的でなく深層的なリアリズム。
それこそ、マネがベラスケスやオランダ絵画から学んだ本質的なものなのではないか、と思う。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

迷林亭主

Author:迷林亭主
迷林亭主ことカウンセリングルーム・メイウッド室長 服部治夫。
三鷹市の住宅地に佇む隠れ家的なヒーリグ・スペース。
古民家を改装したくつろぎの空間で、アートセラピーや催眠療法などを活用し、カウンセリングやヒーリング、創造性開発の援助に取り組んでいます。

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