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絶対の探究の答え―ルドンの『グラン・ブーケ』

三菱一号館美術館で開催中の『ルドンとその周辺--夢見る世紀末』展を観た。

石板画集『夢の中で』の表紙の絵の中心にスックと立つ枯れ木が画家自身の姿だろうか。
背後のぼんやりとした光を感じつつも自身の中に固く閉じこもっている。
そして竪琴に手を添える男は芸術活動をする自身の分身に見える。
同じ画集の中の「賭博師」では、同様の構図だが、男は竪琴ではなく、サイコロを頭上に担いでいる。
自分の仕事が重荷であり、成功の保証も無いが、それでもそれに賭けて生きている。

随所に現れる黒い太陽。
エネルギーの源にはピッタリと黒いふたが被さり、光は遮られる。
エネルギーは闇とともに在る。
ふたを取り除きたい「哲学者・・・絶対の探究」。
しかし、理性による探究では見当違いの三角形の窓を切り開くだけで、太陽の黒いふたは取れない。
佇む「骸骨」は、枯れ木+男の姿。
もの思うように佇む骸骨は、自身の痩せた貧しさを自覚しているが、左手には希望の若木を持っている。

「気球」の中心に位置するのは強い理性的な精神、画家の自我。
口金部分のゴンドラに乗る不分明な影は、子供か老人か猿か。
それは画家自身の無意識の部分だろう。
彼はその部分の大切さを自覚し、絶えず携えて行く。
石板画集『エドガー・ポーに』の表紙にも、自我と無意識を象徴する二人の人物がいる。

「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」で描かれるように、ルドンの眼球は常に上を向いている。
上方のより高い精神の世界を目指し、上昇する。

『ゴヤ頌』の中の「沼の花、悲しげな人間の顔」。
私はかつて変性意識状態で、この沼の花に酷似したイメージを視たことがある。
以来、私は、ルドンが描いたイメージは彼が実際に内面の眼で視たものを基に構成したものだと確信している。
ゴヤは理性的な人だが、同時に様々な幻想的なイメージを見る能力に長けた人だった。
ルドン自身もそうした特質を備えていたため、ゴヤに親近感を感じ、『ゴヤ頌』を編んだのだろう。

「光の横顔」で初めて、光に照らされた人の顔が描かれる。
顕れたイメージは「聖」「智」「厳」。
これ以降、彼の絵に光が入って来る。
1892年の「樹」には小さな葉が沢山芽吹いている。

デッサンでも色彩画でも、初期の作品はきちんとした写生からスタートしている。
初期の作品の色彩は写実的なリアルさを持っているが、後期の絵の色彩は大変幻想的だ。
しかし、私は、この幻想的な色使いこそ、画家が内面の眼で実際に見た色彩を描いたものに違いないと思う。

画面に光が多く入って来て、色彩を持つようになって来ると、光は花の姿を取るようになる。
「花の中の少女の横顔」は女性像と花の組み合わせで、全体が画家自身の自己像だろう。
最初、枯れ木だったものが芽吹き、今は艶やかな花となって咲いている。
女性像(人物像)は画家の自我の部分だろうか。
その自我の部分は「オルフェウスの死」で死ぬ。
そして、後の花の絵は花だけが描かれる。
それは、無我の境地に達した画家の自己像なのだろう。

「グラン・ブーケ」は、これを観ただけでもこの展覧会に来た甲斐がある素晴らしい作品。
観ていると、心が幸福感で満ちて来る。
太陽の黒いふたは完全にはずれている。
絶対の探究の答えはここに在る。
彼は賭けに勝ったのだ。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

迷林亭主

Author:迷林亭主
迷林亭主ことカウンセリングルーム・メイウッド室長 服部治夫。
三鷹市の住宅地に佇む隠れ家的なヒーリグ・スペース。
古民家を改装したくつろぎの空間で、アートセラピーや催眠療法などを活用し、カウンセリングやヒーリング、創造性開発の援助に取り組んでいます。

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