旧くて新しい問い ― 『GUTAI』
国立新美術館で開催中の『具体』展を観た。
全体を通して得た印象は「開放感」、「閉塞感が無く、抜けがある感じ」。
ヨーロッパのシュールレアリスムの絵画には密閉された息詰まる感じがあり、
映像を駆使した現代アートの作品には根を詰めて観ていると頭が痛くなって来る感じがあるが、
『具体』の作品群にはそれを感じない。
それは多分、頭ではなく、身体を使って作られた作品だからだろう。
芸術作品を観るとき、私達は眼で見るだけでなく、身体全体でその波動を知覚する。
その作品が作者の心と身体の全体をバランス良く使って作られたものである場合、波動は私達の全身に気持ち良く伝わり、自然な感動を覚える。
一方、専ら頭脳によって作られた作品の場合、私達の心や身体が動かず、頭ばかり一杯になって、妙な閉塞感を感じる。
「われわれはわれわれの精神が自由であるという証を具体的に提示したい」
と、吉原治良は言った。
「具体的に提示」するためには、この世に存在する物質を素材として使いこなす必要がある。
そのためには、われわれの身体をツールとして駆使する必要がある。
Living in the material world、
私達が現世に肉体を持って生まれて来た理由、
それは、感じ、表現することによって精神を磨くこと。
その原点に気づき、愚直に実践した人達。
それが具体グループの作家達なのだ。
初期の立体的なインスタレーション。
使われている色彩は、白と黒と赤。
最も根源的な色彩をまとった構造物達は、
作家達によって触れられ、
鑑賞者達によって触れられ、
具体的な身体感覚を通してその本質が捉えられる。
そして、現世に生きる私達が日々経験する一回性、瞬間性、偶然性。
点滅する電球やベルの音。
また、舞台で繰り広げられるパーフォーマンスの数々。
留まらずに動くものによって、
私達は無常の一瞬に生きる自分自身を強く意識する。
『具体』の作品が平面化して絵画(的なもの)に収斂して行くとき、
三次元的な質感と瞬間性がきちんと作品に組み込まれて行く。
眼に見える例としては、上前智祐や大原紀美子の絵画に見られる壁面風の質感、
白髪一雄の素足滑走画法や嶋本昭三のびん投げ絵画等が顕著だが、
そうした表層的に見えるものに止まらず、
絵画全般として、既に身体を張って試したことを
自信を持って平面化している様子が感じられる。
或る対象を見て感動した体験を絵画にするとき、
原点となった対象を描きたいと思えば、作品は具象画となる。
逆に、対象にこだわらず、自分の感覚・感情だけを描きたいと思えば、作品は抽象画となる。
後者の絵画はより純粋で、熱いものとなる。
対象の持つ具体性。
対象と自分との関わりが持つ具体性。
そして、自分が主観的に感じる感覚・感情・思念の抽象性。
すなわち、具体と抽象とは表裏一体で不可分のものなのだ。
『具体』グループの作家達は、対象との関わりを通して、身体感覚的に抽象性を獲得して行った。
それは「熱い抽象」と呼ばれたが、音楽に譬えれば肉声を伴った歌である。
一方、1965年以降加わった新会員の「冷たい抽象」とは、音楽に譬えれば器楽演奏である。
つまり、自分の本源的な肉体の関与を部分的なものに制限し、外部のテクノロジーを取り込み、活用することで、表現の多様化を図ったものだ。
私が本展を観てインパクトを受けたのは、自らの身体性の大切さ。
この世に肉体を持って生を受けたことの意味を愚直に問う生き方。
『具体』が新しさを少しも失っていない理由が良く分かった。
全体を通して得た印象は「開放感」、「閉塞感が無く、抜けがある感じ」。
ヨーロッパのシュールレアリスムの絵画には密閉された息詰まる感じがあり、
映像を駆使した現代アートの作品には根を詰めて観ていると頭が痛くなって来る感じがあるが、
『具体』の作品群にはそれを感じない。
それは多分、頭ではなく、身体を使って作られた作品だからだろう。
芸術作品を観るとき、私達は眼で見るだけでなく、身体全体でその波動を知覚する。
その作品が作者の心と身体の全体をバランス良く使って作られたものである場合、波動は私達の全身に気持ち良く伝わり、自然な感動を覚える。
一方、専ら頭脳によって作られた作品の場合、私達の心や身体が動かず、頭ばかり一杯になって、妙な閉塞感を感じる。
「われわれはわれわれの精神が自由であるという証を具体的に提示したい」
と、吉原治良は言った。
「具体的に提示」するためには、この世に存在する物質を素材として使いこなす必要がある。
そのためには、われわれの身体をツールとして駆使する必要がある。
Living in the material world、
私達が現世に肉体を持って生まれて来た理由、
それは、感じ、表現することによって精神を磨くこと。
その原点に気づき、愚直に実践した人達。
それが具体グループの作家達なのだ。
初期の立体的なインスタレーション。
使われている色彩は、白と黒と赤。
最も根源的な色彩をまとった構造物達は、
作家達によって触れられ、
鑑賞者達によって触れられ、
具体的な身体感覚を通してその本質が捉えられる。
そして、現世に生きる私達が日々経験する一回性、瞬間性、偶然性。
点滅する電球やベルの音。
また、舞台で繰り広げられるパーフォーマンスの数々。
留まらずに動くものによって、
私達は無常の一瞬に生きる自分自身を強く意識する。
『具体』の作品が平面化して絵画(的なもの)に収斂して行くとき、
三次元的な質感と瞬間性がきちんと作品に組み込まれて行く。
眼に見える例としては、上前智祐や大原紀美子の絵画に見られる壁面風の質感、
白髪一雄の素足滑走画法や嶋本昭三のびん投げ絵画等が顕著だが、
そうした表層的に見えるものに止まらず、
絵画全般として、既に身体を張って試したことを
自信を持って平面化している様子が感じられる。
或る対象を見て感動した体験を絵画にするとき、
原点となった対象を描きたいと思えば、作品は具象画となる。
逆に、対象にこだわらず、自分の感覚・感情だけを描きたいと思えば、作品は抽象画となる。
後者の絵画はより純粋で、熱いものとなる。
対象の持つ具体性。
対象と自分との関わりが持つ具体性。
そして、自分が主観的に感じる感覚・感情・思念の抽象性。
すなわち、具体と抽象とは表裏一体で不可分のものなのだ。
『具体』グループの作家達は、対象との関わりを通して、身体感覚的に抽象性を獲得して行った。
それは「熱い抽象」と呼ばれたが、音楽に譬えれば肉声を伴った歌である。
一方、1965年以降加わった新会員の「冷たい抽象」とは、音楽に譬えれば器楽演奏である。
つまり、自分の本源的な肉体の関与を部分的なものに制限し、外部のテクノロジーを取り込み、活用することで、表現の多様化を図ったものだ。
私が本展を観てインパクトを受けたのは、自らの身体性の大切さ。
この世に肉体を持って生を受けたことの意味を愚直に問う生き方。
『具体』が新しさを少しも失っていない理由が良く分かった。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術