パラレル・ワールドの鏡 ― 『米田知子 暗なきところで逢えれば』
東京都写真美術館で開催中の『米田知子 暗なきところで逢えれば』を観た。
最初の展示《Scene》で開けて来るいくつかの風景。
それらの風景が持つ無国籍性。
その無国籍性は、私がかつて出張で訪れた国内外の工場で感じたものと通じている。
かつて破壊行為があった場所と現在生産がなされている場所の共通性。
開かれているが、閉じている。
どこにでも在り、どこにも無い。
普遍性と非日常性。
いかなる解釈も許すが、自らは語らない。
余りにもニュートラル。
《Japanese House》《Kimusa》では廃墟について思う。
Japanese Houseに残るぬくもりの感覚。
Kimusaに残る冷ややかな感覚。
そこでは、非言語的な記憶がモノに染み付き、皮膚感覚に訴える。
原感覚的刺激が残っている間は、意識的に距離を取って『廃墟』として視るのだろう。
そして、原感覚的刺激が薄れ、ありのままに受け入れられるようになった時、『遺跡』として歴史的意味付けがされて行くのだろう。
《パラレル・ライフ:ゾルゲを中心とする国際諜報団密会場所》
暗あるところで逢う人達。
彼等にとって周りの風景はこれらの写真のように不分明に見えていたのかも知れない。
彼等にとってシャープに像を結んでいたのは密会相手だけ。
密会相手を抜いた背景は展示された写真のようなものだったに違いない。
シャープな像がフォーカスされた中心と不分明な背景との対比は《見えるものと見えないもののあいだ》で象徴的に表わされている。
《サハリン島》
破壊行為と工場の廃墟。
無国籍な風景。
だが、このシリーズの風景はニュートラルではなく、痛々しい。
『帝政ロシア時代、囚人が掘ったトンネルの入口、“3人兄弟の岩”をながめて、』で佇む二人の若者は鎮魂の祈りを捧げているかのようだ。
ジョージ・オーウェルの『1984年』とチェーホフの『サハリン島』と来れば、自ずと村上春樹の『1Q84』が連想される。
痛さを感じないように記憶に蓋をしてしまうと、現実の風景と記憶の風景が繋がらず、私達は非連続なパラレル・ワールドに生きることになる。
それはトラウマを抱え込むことになり、私達自身を生きにくくする。
「過去を支配するものは未来をも支配し
今を支配するものは過去をも支配する」
今現在、どのように考え、行動するかで過去の意味付けが変わる。
そして、過去の意味付けが変わることで未来の展開が変わって行くのだ。
米田はジャーナリスト志望でキャリアを開始しただけに、現実的・社会的な解決への志向を強く感じさせる。
パラレル・ワールドから抜け出る為には分岐したところに戻るしかない。
“3人兄弟の岩”をながめ佇む二人は、暗なきところで逢うことを切望して高速道路の非常出口を前にした青豆と天吾のようにも見える。
《積雲》
『平和祈念日・広島』と『終戦記念日・靖国神社』に共通する人形のように硬い表情。
黒い背景にふっくらと浮かび上がる白い『菊』。
白と黒とに彩られたこのシリーズの写真から、私達は未だ服喪を解いてはいけない、と諭されているように感じる。
『馬・避難した村・飯館村・福島』の余りにも美しい画面。
画面中央部の赤い紅葉は私達に何を語りかけようとしているのだろうか。
米田の写真作品はひとつひとつが単純に解けないもどかしさを感じさせる。
そして、そのもどかしさをゆっくりと味わっていたいという誘惑に駆られる。
写真の持つ静謐な魅力を静かに味わい楽しみたい。
しかし、今回の展覧会では映像作品の音響が大き過ぎ、写真作品の静かな鑑賞の邪魔をしてしまっていたのは残念でならない。
最初の展示《Scene》で開けて来るいくつかの風景。
それらの風景が持つ無国籍性。
その無国籍性は、私がかつて出張で訪れた国内外の工場で感じたものと通じている。
かつて破壊行為があった場所と現在生産がなされている場所の共通性。
開かれているが、閉じている。
どこにでも在り、どこにも無い。
普遍性と非日常性。
いかなる解釈も許すが、自らは語らない。
余りにもニュートラル。
《Japanese House》《Kimusa》では廃墟について思う。
Japanese Houseに残るぬくもりの感覚。
Kimusaに残る冷ややかな感覚。
そこでは、非言語的な記憶がモノに染み付き、皮膚感覚に訴える。
原感覚的刺激が残っている間は、意識的に距離を取って『廃墟』として視るのだろう。
そして、原感覚的刺激が薄れ、ありのままに受け入れられるようになった時、『遺跡』として歴史的意味付けがされて行くのだろう。
《パラレル・ライフ:ゾルゲを中心とする国際諜報団密会場所》
暗あるところで逢う人達。
彼等にとって周りの風景はこれらの写真のように不分明に見えていたのかも知れない。
彼等にとってシャープに像を結んでいたのは密会相手だけ。
密会相手を抜いた背景は展示された写真のようなものだったに違いない。
シャープな像がフォーカスされた中心と不分明な背景との対比は《見えるものと見えないもののあいだ》で象徴的に表わされている。
《サハリン島》
破壊行為と工場の廃墟。
無国籍な風景。
だが、このシリーズの風景はニュートラルではなく、痛々しい。
『帝政ロシア時代、囚人が掘ったトンネルの入口、“3人兄弟の岩”をながめて、』で佇む二人の若者は鎮魂の祈りを捧げているかのようだ。
ジョージ・オーウェルの『1984年』とチェーホフの『サハリン島』と来れば、自ずと村上春樹の『1Q84』が連想される。
痛さを感じないように記憶に蓋をしてしまうと、現実の風景と記憶の風景が繋がらず、私達は非連続なパラレル・ワールドに生きることになる。
それはトラウマを抱え込むことになり、私達自身を生きにくくする。
「過去を支配するものは未来をも支配し
今を支配するものは過去をも支配する」
今現在、どのように考え、行動するかで過去の意味付けが変わる。
そして、過去の意味付けが変わることで未来の展開が変わって行くのだ。
米田はジャーナリスト志望でキャリアを開始しただけに、現実的・社会的な解決への志向を強く感じさせる。
パラレル・ワールドから抜け出る為には分岐したところに戻るしかない。
“3人兄弟の岩”をながめ佇む二人は、暗なきところで逢うことを切望して高速道路の非常出口を前にした青豆と天吾のようにも見える。
《積雲》
『平和祈念日・広島』と『終戦記念日・靖国神社』に共通する人形のように硬い表情。
黒い背景にふっくらと浮かび上がる白い『菊』。
白と黒とに彩られたこのシリーズの写真から、私達は未だ服喪を解いてはいけない、と諭されているように感じる。
『馬・避難した村・飯館村・福島』の余りにも美しい画面。
画面中央部の赤い紅葉は私達に何を語りかけようとしているのだろうか。
米田の写真作品はひとつひとつが単純に解けないもどかしさを感じさせる。
そして、そのもどかしさをゆっくりと味わっていたいという誘惑に駆られる。
写真の持つ静謐な魅力を静かに味わい楽しみたい。
しかし、今回の展覧会では映像作品の音響が大き過ぎ、写真作品の静かな鑑賞の邪魔をしてしまっていたのは残念でならない。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術