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傍観者と生活者 ― 『米谷清和 ~渋谷、新宿、三鷹~』

三鷹市美術ギャラリーで開催中の『米谷清和 ~渋谷、新宿、三鷹~』展を観た。

展示されている絵画の額にはガラスがはめられておらず、画面の岩絵具のザラザラした質感が、コンクリートやアスファルトや土を連想させ、画面そのものにとても存在感がある。

渋谷、新宿は、途中の駅、途中の街。
通勤途上の人々が歩く、待つ。
ただ通り過ぎていく場所。
そこに特別な思いを寄せる人はいない。
見慣れた風景なので、違和感なく、おとなしく通り過ぎていく。
但し、感動はない、笑いはない。
一人一人の人は孤独。
人々は厚いコートに身を包み、他者を遮断する。
会話を交わす相手はいない。
視線はあらぬ方に彷徨い、心はここにない。
ただひたすらに何かを待つ。
そして、耐えかねて受話器を取る。
電話機は鮮やかな赤、あるいは黄色。
電話を掛けるという今、ここの行為に集中している人の心の華やぎ。
話し相手は電話の向こうだけ。
これは、これらの絵が描かれた1970年代、80年代だけでなく、現代でも同じ。
むしろ、現代の方が、人々が生活するあらゆる空間が、渋谷・新宿のような途中の場所化しているように感じる。

渋谷や新宿を描いた絵の多くには赤が挿し色として使われている。
それは寂寥に耐える生命の埋火(うずみび)を思わせる。

1980年代の半ばに、日中の屋外の風景を描いた絵が制作される。
「街・朝」「街・午後」「蝉の鳴く頃」。
人の影がない。
人が実在していないかのような不思議な感覚。
身体感覚を欠いたある種の幻想性。

一方、同時期の1986年に描かれた「街・夕」。
そこでは、歩く人々に影がある。
人々の後ろ姿にホッとした和やかな感じがある。
画家が人々に心を寄せている雰囲気が感じられる。
夕暮れ時という、独特の時間帯のなせる魔法なのだろうか。

1990年代に描かれた「ASPHALT」「真夜中の雨」。
雨に濡れた舗道に反射する光が幻想的で生き生きしている。
光と積極的に向き合っている。
そして、1998年に描かれた「雨上がりの音・朝」「雨上がりの音・昼」「雨上がりの音・夕」「雨上がりの音・夜」の四部作では、水面を鏡としてよりしっかりと光を捉えている。
さらに、2014年に描かれた「ゆきあいの水面」では、水面に光と生命が見事に凝縮して表現されている。

2000年以降、三鷹で描かれた絵、例えば「春の頃」「夜の川辺」「春夜頃」には気負いがない。
途中の場所ではなく、住んでいる場所だからだろうか。
風景と描き手との間の関係がリラックスしている。
かつて渋谷や新宿を描いたときの構えた緊張感が払拭されている。
これらの絵には身体性がある。
もはや傍観者ではない。
色彩も自然で豊かだ。

2012年の「灯点し頃(夕間暮れ)」の空の深い青の美しさ。
あわいのときが持つ特有の多様な色合い。
観ていると画面の中に惹き込まれていくようだ。

2015年に描かれた「何気な春」。
光そのものを、水面を介在させることなく、直接風景そのものを描くことによって、見事に表現している。
絵を観る者を包み込む受容性がある。
いつまでもこの絵の中の世界に遊んでいたい、と思う。
自分と自然との一体感を感じる稀有の時間。
桜の花の魔力。
この一枚を観られただけで、この展覧会に来た甲斐が有った。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

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プロフィール

迷林亭主

Author:迷林亭主
迷林亭主ことカウンセリングルーム・メイウッド室長 服部治夫。
三鷹市の住宅地に佇む隠れ家的なヒーリグ・スペース。
古民家を改装したくつろぎの空間で、アートセラピーや催眠療法などを活用し、カウンセリングやヒーリング、創造性開発の援助に取り組んでいます。

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