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自由について

「クラシックってすごく制約が多いんですよ」
何十年前かのTV番組の中で、若い女性の軽音楽系の演奏者が語っていた言葉だ。
クラシックの演奏に不自由を感じ、自由になりたかったらしい。
彼女は軽音楽に転向することで、自由を得たようだ。

クラシック音楽の演奏は確かに制約が多い。
それは音楽の要求する技術レベルが高いからだ。
制約を不自由と感じなくなるためには演奏技術を磨く他ない。
制約を制約と感じなくなった時、演奏者は自由を得る。
そして、聴く者は感動を得る。

シーナ・アイエンガーは『選択の科学』の中で、自由には「~からの自由」と「~する自由」がある、と述べている。
初段で紹介した女性演奏者が軽音楽に転向することで得た自由は「~からの自由」である。
それは逃避することによって得られる自由で、自由そのものが目的となっている。
一方、クラシック音楽のの演奏技術を磨くことによって制約を乗り越えて得られる自由は「~する自由」である。
「~する自由」は別の目的を達するための過程で獲得されるもので、それは手段であると言える。

クラシック音楽だけではない、その他の芸術も、スポーツも、仕事上の様々なスキルも、この世のあらゆる技芸には制約があり、その制約を努力して乗り越えることで大きな喜びを得られる。
ルールや約束事がある、と言うことは表現の方向性を制限することで、逆に表現の力を集中して高める効果を持つ。
厳しいルールがあるからこそ、人々はあれ程サッカーに夢中になれるのだ。

無調音楽は数人の天才作曲家を輩出したが音楽の主流にはならなかった。
調性のある方が、表現力のある音楽を作曲し易かったからではないかと思う。
制約こそは表現力強化の源泉である。
同じことは現代美術についても言えるかも知れない。

私達は3次元の空間と時間と言う制約のある世界に生きている。
それが人間の宿命である。
その宿命を不自由と感じるか、むしろ、自由と感じるかはその人の感性による。
前者は自由を目指して苦悩するが、自由が最終目的の行き止まりでその先が無い。
後者は自由と戯れながら生きる先に多様な可能性が開けている。

この世の人生とは、私達の魂が肉体と言う制約を伴って取り組むレッスンと言う見方も出来る。
肉体は制約でもあるが、同時にパワフルな表現のツールでもある。
肉体を出来るだけ軽く感じ、自由に表現活動が出来るように保つこと、これが健康管理が大切とされる大きな理由だ。
己が宿命に自由を感じ、多様な可能性に向けての努力そのものを楽しんでいる時、人は幸福を感じるのだ、と私は思う。

テーマ : 人生を豊かに生きる
ジャンル : 心と身体

永劫回帰

家電量販店でダイソンの扇風機を見た。
円環と中空、無から生じる有。
東洋的な思想を西洋的なデザインで形にしたもの。
私はふと、ニーチェの永劫回帰を思い浮かべた。

永劫回帰とは、宇宙の事象は終末を迎えることなく円環運動を描き、全て寸分たがわず同じことを無限に繰り返すことである。
つまり、人が経験する人生の或る瞬間は一回性のものではなく、際限もなく繰り返される。

何回も繰り返される同じ人生を括弧でくくって、今現在と言う瞬間に焦点を当てると、それは無限の厚みを持ったもの、すなわち、永遠となる。
今=永遠。
これは誰でも感じることのある普遍性のある感覚だと思う。

今を永遠と感じる不思議さを考える時、主観の問題として、認識論的アプローチを試みる方がやり易い。
仏教でもカウンセリングでも個人が主観的にどう感じるか、に重きを置いている。
それに対して、ニーチェはソクラテス以前のギリシャ哲学に傾倒していたためであろうか、この問題を存在論的に解釈しようと試みたのが永劫回帰論なのではないだろか。

つまり、永劫回帰と言うのは、ニーチェの表現である。
それ故、永劫回帰そのものについて論理的に検討することよりも、彼にそう言う表現をさせた原体験に思いを寄せる方が実り多い。

今と言う時がとても良い瞬間であれば、それを肯定的に受け入れ、いつまでも続いて欲しいと思う。
今=永遠が良い時であれば、誰でも肯定的に受け入れられる。
一方、今と言う時がとても嫌なものであったら、そして、今=永遠であったとしたらどうだろうか。
逃げ出したい、と思うが、今=永遠であれば、逃げることは不可能だ。
開き直ってそのまま受け入れ、肯定する他、生きる道は無い。
つまり、今と言う時がどんな時であろうとも、肯定する他無いのだ。

私達は人生のいくつかの或る瞬間に永遠を感じることがある。
また、時には嫌なことを受け入れ、肯定することも出来る。
しかし、人生の全ての瞬間に於いて、良いこと嫌なこと全てを受け入れ、肯定し、永遠と感じることはとても出来ない。
それが出来るのが、超人と言うことなのだろう。

超人と言う目標に向かって進む風を起こす装置。
ニーチェの扇風機。
それが永劫回帰の正体なのだ。

テーマ : 思うこと
ジャンル : 学問・文化・芸術

木蓮の花

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メイウッドの庭に木蓮の花が咲いた。
昨年は咲かなかった花が今年は咲いた。
6年前の賑やかな満開には遠く及ばないけれど。

木蓮の花言葉は「持続性」。
来年も再来年も咲き続けて欲しい。
私もここで頑張る。

テーマ : 今日の出来事
ジャンル : 心と身体

椿

メイウッドの玄関先の椿が満開になった。

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年年歳歳花相似たり
歳歳年年人同じからず

昨年の今頃、メイウッドは開室の準備中だった。
そして、この一年の間に実に色々なことがあった。
1000年に一度の大震災も。

「花相似たり」だが、同じではない。
「人同じからず」だが、実は相似ている。
自然も人間も似ているけれども同じではない。
同じではないが、似ているのだ。
上記のように捉えれば、この詩句は方丈記の「ゆく河の水は絶えずしてしかももとの水にあらず」と同様、無常観を表現していると思われる。

しかし、劉廷芝は、自然には距離を置いて、相似性を強く感じている一方、人間については、逆に相違の方を意識し、古人の不在に思いを寄せている。
詩人の心の優しさだろうか。

テーマ : 「生きている」ということ
ジャンル : 心と身体

フラジャイル

2011年3月11日14時46分。私は仕事を終え、三鷹駅近くのイタリアンレストランで遅めのランチを食し、食後のコーヒーを飲んでいるところだった。
グラグラと始まった揺れは次第に激しくなり、一向に収まる気配が無い。
直ぐ近くのペンダントの電球がチカチカ点滅し、ワインのビンが床に落ちて割れる。
店全体がミシミシと揺れている。
私は店の従業員に促されて、階段を下り、屋外に出た。
路上に立っていても、まるで船に乗っているみたいにユラユラ揺れて、いつものように大地にしっかり立っている実感が完全に失われている。
不気味に曇った空を背景に、信号が、電線が、ユサユサと揺れ、いつの間にか異次元の空間に投げ込まれてしまったように感じる。
路上には退避した大勢の人達が立ち、不安そうに空を見上げている。
立ち並んだ建物の裏手で黒い煙が立ち上っている。
消防車のサイレンの音・・・。

先日、六本木ヒルズで開催された小谷元彦展で『インフェルノ』というインスタレーションに入った時、「宇宙に佇つ」ことの実態と感覚の差、不安定感と慣れを実感したが、3月11日には、それを現実の大地で実感することになった。
私達が生活している日本列島は大変フラジャイルだ。
しかし、それは同時にとてもダイナミックで創造性に満ちている。
森林に覆われた緑の自然、豊かな水、肥沃な土地、豊富な水産資源、各地に見られるさりげなくも美しい風景、随所に湧き出る温泉・・・。
日本列島は世界中で最も人が住みたいと思う自然環境を有した土地のひとつだ。
しかし、一方では、地震、津波、台風といった自然災害も多い、ハイリスク・ハイリターンの土地である。
そのハイリスク・ハイリターンの国に生きて来たことが日本人の心性に大きな影響を及ぼしているのではないだろうか。
穏やかで豊かな自然に囲まれた生活で育まれた優しさや和の心。
厳しい自然災害に対処するために身に付けたしなやかな強さと助け合いの心。
この日本列島を落ち着き所として選択した私達の祖先のDNAが私の中に在ることをしかと感じる。
私はこの日本で生きて行く覚悟と喜びを今までになく強く感じている。

今、被災地の方々が切実に感じておられるのは「生存の欲求」と「安全の欲求」だ。
当面の間、私として被災地の方々に出来る支援は募金をしたり、節電をしたり、物の買い占めを控えたりすることに留まるかも知れない。
しかし、このような時こそ、一人一人の人が必要以上に情緒に流されずに目前にある自分の仕事に専念することが大切だと思う。
一人一人の仕事の積み重ねが回り回って被災地の方々の助けにつながるものと信じる。

今は正に戦時中の非常時だが、この非日常はしばらくの間、日常となろう。
私は祖先が獲得した無常感というコンセプトをむしろ肯定的に生きて行きたいと思う。

テーマ : 「生きている」ということ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

迷林亭主

Author:迷林亭主
迷林亭主ことカウンセリングルーム・メイウッド室長 服部治夫。
三鷹市の住宅地に佇む隠れ家的なヒーリグ・スペース。
古民家を改装したくつろぎの空間で、アートセラピーや催眠療法などを活用し、カウンセリングやヒーリング、創造性開発の援助に取り組んでいます。

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